乗り物
鉄道
2019/3/24 18:30

相模川に沿ってのんびり走るJR相模線−−秘められた10の謎に迫る

おもしろローカル線の旅34 〜〜JR相模線(神奈川県)〜〜

JR相模線は茅ヶ崎駅と橋本駅間33.3kmを結ぶ。全線が単線で1991(平成3)年春までは、神奈川県を走る旅客線のうち唯一残っていた非電化路線だった。

 

そうしたローカル線も2027年には橋本駅にリニア中央新幹線の駅ができる予定で一躍、脚光を浴びつつある。現在は全線単線でローカル線の風情を色濃く残す。乗車すると歴史を含め意外に謎多き路線であることが分かった。

 

↑相模線を走る205系はすべて4両編成。JR東日本の他の路線からは消えつつある205系だが、相模線の205系に関しては、車両変更などの話など浮かび上がってきていない(上溝駅〜番田駅間)

 

【相模線の謎①】相模鉄道が造った相模線がなぜJRの路線に?

相模線は今でこそJR東日本の路線だが、開業させた会社は相模鉄道だった。さらに現在の相模鉄道のメイン路線とも言うべき相鉄本線は、神中鉄道(じんちゅうてつどう)という別会社が開業させた路線だった。

 

相模鉄道自らが造った路線がJRの路線となり、一方で別会社が造った路線が相模鉄道となっている。なぜ、そのような不思議なことになったのだろう。

 

歴史を振り返る前に、相模線の概要を見ておこう。

↑相模鉄道開業当時のままで残る倉見駅。駅入口(写真左手)には寒川町が設けた案内板もある。案内板には右上写真のような当時の蒸気機関車が牽く列車の様子や、駅舎の写真が掲載されている

 

路線と距離JR相模線・茅ヶ崎駅〜橋本駅間33.3km
開業1921(大正10)9月28日、茅ヶ崎駅〜川寒川駅間が相模鉄道により開業。以降、延伸を重ね1931(昭和6年)年4月29日、茅ヶ崎駅〜橋本駅間が全線開業
駅数18駅(起終点を含む)

 

相模線を開業させた相模鉄道。1943(昭和18)年4月1日に神中鉄道と合併した。神中鉄道の路線は横浜駅〜厚木駅間(1933年に全通・合併当時は横浜駅〜海老名駅間で旅客列車を運行)で、相模線とは厚木駅で接続していた。ところが両線が相模鉄道だった期間はわずか1年あまりと短かった。

 

合併した翌年、1944(昭和19)年6月1日に相模線が国有化されてしまう。以降、相模線は国鉄の路線となる。理由は戦時下のため明確にされていないが、相模線内に軍事施設があったことと、相模線、横浜線、八高線と連なる路線を、東京のバイパス路線として機能させたいためだったと推測される。

 

太平洋戦争が相模線の運命を大きく変えてしまったのだ。

 

【相模線の謎②】なぜ相模線は相模川沿いに造られたのだろう?

↑相模川に沿って走る相模線だが、電車から相模川が見える箇所はほとんどない。下溝駅〜相武台下駅間は、そんな相模川が見える数少ないポイント。列車はちょうど相模川が造り出した河岸段丘の台地上を走る

 

相模線はほぼ相模川沿いを走っている。それはなぜだろう? 相模線は相模川の川砂を運ぶことを目的に路線が敷かれた。

 

相模鉄道は1917(大正6)年に会社が創立している。1921(大正10)に茅ヶ崎駅〜川寒川駅間にまず路線を開業された。川寒川駅は相模川に近い現在の神川橋付近にあった駅だ。(旧寒川支線とは異なる・支線の詳細は後述)

 

その後、間もなく1923(大正12)年に関東大震災が起こる。相模線も被災し、路線の復旧まで1か月かかった。一方で復興のため、また東京の山手に新たな住宅地が求められたことなどで、多くの砂利が必要となった。その後に、寒川駅から北へ路線の延長が進められた。

 

当時は砂利運搬用の貨物列車が多く走ったことから「砂利鉄道」と揶揄された時代もあった。とはいえ関東大震災からの復興を目指す東京、横浜には欠かせない路線だった。

 

ちなみに1964(昭和39)年に砂利採取法が強化され、相模川などではそれ以降、砂利の採集が禁止され、相模線でも砂利を運搬する列車が姿を消している。

 

 

【相模線の謎③】なぜ相模線は相模鉄道に返却されなかったのか?

相模線は太平洋戦争が進む最中、なかば強制的に買収された。買収された私鉄は「戦時買収私鉄」と呼ばれた。首都圏では相模線のほか、南武線、青梅線、鶴見線も国有化されている。買収といっても戦時公債で代金が支払われ、その公債自体はほぼ換金不可能だったというのだからひどい話だ。

 

実はこの戦時下に買収された私鉄路線は、買収にあたり戦争終了後には元の会社に戻すという条件が付けられていた。そのため路線の持ち主だった元の会社がみな一定期間、存続していたという妙なことになっていた。その一例として現在も会社が残る鶴見臨港鐵道(鶴見線を開業させた)が上げられる。

 

だが、1線たりとも元の会社に戻されることはなかった。相模線も相模鉄道に戻されることなく、相模鉄道は以前の神中鉄道の路線のみで、戦後はスタートすることとなった。

 

相模鉄道をはじめ複数の会社から買収路線の払下げ要求が出されたそうだ。ところがまったく返却されることがなかった。戦後まもなく国会に鉄道払下げ法案が提出されたが、審議未了、廃案になってしまう不運も重なった。

 

↑相模線厚木駅に隣接して相模鉄道の厚木駅(現在は貨物駅の扱い)がある。相模鉄道の新造車両は、JR相模線から延びた連絡線を通って運ばれる。相模線と相模鉄道がかつて大きな関わりがあったことが、こうした厚木駅の構造を見ても窺える

 

戦後間もなく相模線では砂利輸送が活発に行われたものの、旅客面では芳しくなかった。そうした実情もあり、当時の相模鉄道としても本腰で戻して欲しいということを求めなかったのかも知れない。

 

戦中・戦後を通して相模鉄道自体も経営的に苦しい時期があり、東急グループの支援を仰いだ時期もあった。その後に会社を立て直し、いずみ野線を開業させるなど、大手私鉄として認められる堅実な会社経営を続けてきた。むしろその時に相模線が返却されていたならば、その後の成長はなかった可能性もある。

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
全文表示