おもしろローカル線の旅35 〜〜三岐鉄道三岐線(三重県)〜〜
三岐鉄道三岐線は三重県内の近鉄富田駅(きんてつとみだえき)と西藤原駅を結ぶ。車窓からは広々した田園風景や、鈴鹿山脈、そして日本三百名山の藤原岳を望む。
三岐線は西武鉄道の古くからのファン、そして貨物列車好きにとっては見逃せない路線だ。さらに今、西武鉄道ファンを喜ばせるような車両塗り替えが行われている。そんな三岐線を旅すると想定以上の新発見が浮かび上がってきた。
【三岐線で新発見①】三岐という名前はどうして生まれたのか?
三岐鉄道三岐線という名前、なぜ「三岐(さんぎ)」なのだろうか。
筆者は迂闊なことに、名の由来に気付かず、たびたび沿線を訪れていた。今回、原稿を書くにあたり調べると、この名前は開業させるにあたっての計画が元になっていた。そんな歴史を振り返る前に、三岐線の概要を見ておこう。
路線と距離 | 三岐鉄道三岐線・富田駅〜西藤原駅26.5km、近鉄連絡線・近鉄富田駅〜三岐朝明(あさけ)信号場1.1km |
開業 | 1931(昭和6)年7月23日、富田駅〜東藤原駅間が開業、12月23日に延伸、西藤原駅が開業 |
駅数 | 16駅(起終点を含む) |
賢明な読者の方々は、すでにお分かりかも知れない。三岐鉄道の三岐とは、三重県の「三」と岐阜県の「岐」を合わせたものだった。会社創設当時には、三重県の四日市市から、岐阜県の大垣市を経て、関ヶ原まで結ぶという壮大な路線計画が立てられたのだった。
会社の創設には、浅野セメント、小野田セメント(両社はその後に変遷、合併し現在は太平洋セメントとなっている)の2社がそれぞれ取締役を送り込むなどして、大きく関わっていた。セメントの原材料となる石灰石が豊富に埋蔵される藤原岳の開発を見込んでのものだった。
また路線を延ばす予定だった関ヶ原には、近くの伊吹山から石灰石の採掘が行われ(現在は、セメント工場は閉鎖されている)、その産出のために鉄道路線を、と計画したのだった。いわば壮大なセメントロードを造ろうとしたわけだ。
ところが三岐線が誕生したころは、昭和恐慌と呼ばれる世界的な大不況のまっただ中。岐阜県内まで路線は延ばされることなく、1937(昭和12)年には鉄道路線開業の免許が失効してしまう。関ヶ原まで延ばす計画は頓挫してしまった。とはいえ、岐阜まで線路を敷設したいという先人たちの夢は生き続け、会社名と路線名に、三岐の名前が残ることになった。
ちなみに三岐鉄道は三岐線と平行するように北勢線という路線もある。
こちらの路線は、北勢鉄道という会社が設けた路線で、その後、三重交通、さらに近畿日本鉄道(以降「近鉄」と略)が運営した。しかし、近鉄が廃線計画を明らかにしたことから、地元が存続にむけて対応。2003(平成15)年に三岐鉄道に譲渡され、地元自治体の協力を受けつつ運行が続けられている。
北勢線は本サイトの「おもしろローカル線の旅」で紹介している。
762mm幅が残った謎—三重県を走る2つのローカル線を乗り歩く【三岐鉄道北勢線/四日市あすなろう鉄道】
【三岐線で新発見②】なぜ三岐線は元西武の車両ばかりなのか?
三岐線の電車に乗っていると、まるで一時代前の西武鉄道の路線に乗っているかのようだ。西武鉄道の元401系は、三岐鉄道101系に。元701系は801系と851系となり走っている。さらに、西武鉄道でまだ現役として活躍している新101系も導入されていて、こちらは751系となっている。
かつて三岐線の電車は元国鉄の車両、そして自社発注による新造車両が主体だった。1973(昭和43)年に電気機関車のED457号機を西武鉄道の所沢車両工場(現在は閉鎖)で製造した時から西武鉄道との縁が生まれる。同時期に解体発生品を一部に利用した新車両の製造を所沢車両工場に発注している。
さらに1977年には元西武鉄道の501系(三岐鉄道501系)を、1981年には元西武鉄道の451系・571系(三岐鉄道601系)といった元西武鉄道の車両を利用している。
現在、所有する車両はすべてが西武鉄道の所沢車両工場製だ。同じ工場で生まれただけに整備や機器類など流用がしやすいということもあったのだろう。西武鉄道と三岐鉄道には資本関係がないにも関わらず、こうした長年にわたる結びつきが西武鉄道の車両のみとなっていった理由だった。