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2019/8/11 18:00

なかなか興味深い歴史&逸話を持つ「弥彦線」10の秘密

おもしろローカル線の旅49 〜〜JR東日本 弥彦線(新潟県)〜〜

 

新潟県の弥彦駅と東三条駅を結ぶJR弥彦線は、その距離17.4kmと短めの路線である。この路線、前回に紹介した越後線と似た“境遇”を持つ。開業したころには新潟から福島へ県境を越えて走らせる壮大な路線の計画が立てられていた。

 

そんな弥彦線。現在、残念ながら乗客は少なめ。ところが、弥彦を訪れると、乗らない&行かないのが非常に惜しい、そんな魅力に満ちた路線だった。

 

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↑JR弥彦線を走る主力車両はE127系という電車。この電車、JR東日本では車両数が少ない希少車でもある(詳細後述)

 

【弥彦線の秘密①】弥彦線を開業させた越後鉄道の不可思議さ

弥彦線は起点が弥彦駅で、終点が東三条駅となる。このような基準があり、弥彦駅発の列車が下り列車。東三条駅発の列車が上り列車となる。東三条駅の方が繁華なのにもかかわらず、このあたりちょっと不思議なところでもある。

 

さてこの弥彦線。越後鉄道という会社が開業させた。いろいろな問題がその後に生じてくる訳ありの鉄道会社だったが、そのあたりは後ほど触れていこう。

 

まず弥彦線の概要を見ておきたい。

路線と距離JR東日本 弥彦線/東三条駅〜弥彦駅17.4km
開業1916(大正5)年10月16日、越後鉄道により西吉田駅(現・吉田駅)〜弥彦駅間が開業、その後に延伸、1925(大正14)年4月10日、弥彦駅〜一ノ木戸駅(現・東三条駅)間が全通
駅数8駅(起終点を含む)

 

↑旧弥彦線の越後長沢駅。現在はバス停となっている。弥彦線は1927(昭和2)年に越後長沢駅まで路線を延長した。旧南蒲原郡下田村にあった駅で、現在は「長沢駅跡」バス停となっている。この駅までどうして、路線を延ばしたのだろう。不思議だ

 

現在の東三条駅まで開業した翌年(1927年)に、越後長沢駅まで7.9kmの路線を延ばしている。

 

弥彦線を開業させた越後鉄道という会社は、吉田駅で接続する越後線も造っている。前回の越後線の紹介でもそのあたりについて触れたが、この鉄道会社、不可思議な動きが多く見られる。

【弥彦線の秘密②】只見まで路線延長を計画していたって本当?

弥彦線の路線の敷設は、弥彦神社(彌彦神社=正式には「いやひこじんじゃ」と読む)への参拝客の取り込みを目指したのにほかならない。越後線経由で新潟方面から、そして東三条駅(路線開業当時は一ノ木戸駅)に乗り入れて、信越本線経由の参拝客の利用を増やそうとしたのだった。

 

ところが、東三条駅に乗り入れまではわかるとして、その2年後には越後長沢駅へ路線を延伸させている。この越後長沢駅、いまでこそ三条市内となっているものの、当時は旧下田村の鄙びた場所にあった。

 

越後鉄道は、予算不足で新潟市内を流れる信濃川に橋を架けられなかったことなど課題があり、先行きが危ぶまれる経営状態でもあった。

 

このような状況のなかで、なぜ東三条駅から先に路線を延ばしたのだろうか。

 

↑東三条駅から越後長沢方面へ路線が延びていた。右に緩やかにカーブする現在の道路に沿い、以前は弥彦線の線路が敷かれていた

 

越後長沢駅まで路線を延ばした理由は、なんと福島県の只見まで路線を作る計画があったからだった。

 

えっ只見! と思ってしまう。只見へは今でこそ、上越線の小出駅から只見線が走っている。この路線も大変な難路で、開通までに巨額な費用がかかった。しかも、太平洋戦争後だいぶたち、トンネル掘削の技術などが向上したからこそできあがった路線だった。

 

地図を見てみる。東三条からは南東に国道289号が延びている。越後長沢駅もこの国道289号沿いにある。しかし、国道289号は三条市内の山中で途切れ、今も福島県との県境部分には道路がない。

 

この県境部、八十里越と言って、大変な難路。只見線沿いの国道252号は県境部分を、六十里越と呼ぶ。険しい峠道そのものだが、それ以上に険しいと言われる。現在、国道289号は県境部分に道路を通すべく、工事が進められていて、2022年度には結ばれる予定とされている。

 

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↑旧・越後長沢駅近くの状況。大型店舗が最寄りにあるものの、民家が多い土地ではない。左を走るのが国道289号バイパスで、旧弥彦線の路線を使ってバイパスが整備された。この先、国道289号は只見方面へ延びるが、県境部分にはまだ道路がない

 

現代の技術を要してようやく、峠越えが可能になったルートである。果たして当時の越後鉄道の経営陣は、この八十里越の険しさを知っていて、計画を立てたのだろうか。むしろ、一般投資家から資金を募るために、“無謀”な路線計画を打ち出したのではないのだろうか。

 

さらに、越後長沢駅まで路線を延ばしたわずかその2か月後に国有化されたのだった。越後線を含め、経営が立ちゆかなくなり国有化を働きかけた。こうした一連の動きはきな臭ささえ感じる。国有化され、買収されたことで、経営者たちはある程度の資金を回収できたのであろう。後の時代に生きる者としては矛盾を非常に感じてしまう話でもある。

 

国有化後は、前回の越後線の原稿でも紹介したように、「越後鉄道疑獄」として政界まで巻き込み、政党政治の混乱を招く自体にまでに発展している。

 

ちなみに東三条駅〜越後長沢駅間は、太平洋戦争の戦時下には不要不急の路線として休止され、線路も取り外された。その後に営業を再開、1985(昭和60)年3月末に廃線となっている。

 

利用客が少なく不採算が続いたものの、太平洋戦争後も40年近く路線が保たれたことにも違和感を覚える。

 

地元の方々や、利用者にとっては、いたたまれない話であり、文字にするのも申しわけない話で恐縮だが、弥彦線の“不遇”はまだ続く。

 

 

【弥彦線の秘密③】越後線と同じく直接ちょう架式で電化された

昭和初期に国有化された弥彦線。その後、非電化の時代が続いたが1984(昭和59)年になり電化された。

 

しかし、1980年代といえば、国鉄の経営悪化が顕著となった時期。越後線とともに電化工事が行われたが、越後線と同じように、経費削減を念頭におかれて工事が進められた。

 

そのため現在のJRの路線としては珍しい「直接ちょう架式」という電化工事が多くの区間で採用された。

 

↑弥彦線の路線の多くの区間では、パンタグラフから電気を取り入れるトロリー線が1本のみという「直接ちょう架式」が取り入れられた。新型のE129系が路面電車と同じ構造の架線の元を走るという、ちょっと不思議な光景に出会える

 

前回の越後線の記事と重複する部分があるが、念のため紹介しておこう。

 

直接ちょう架式は、パンタグラフがすりつけるトロリー線が1本というシンプルな形の電化方式のこと。主に路面電車など、スピードが抑えられた鉄道で使われている。

 

構造がシンプルで、コストを抑えられる反面、パンタグラフがすり付けるトロリー線に、どうしても高低差が出てしまいがちで、集電能力が低い。

 

ちなみに、通常の鉄道路線で使われているのは「シンプルカテナリ式」と呼ばれる方式で、トロリー線の上にちょう架線が張られ、トロリー線との間をハンガーに支えられている。

 

↑通常の電化区間で見られるシンプルカテナリ式。分かりやすいように各パーツの名前を入れてみた。パンタグラフがこするケーブルがトロリー線、上にちょう架線が張られ、ハンガーによりトロリー線が支えられている様子がわかる

 

越後線も弥彦線も、直接ちょう架式とシンプルカテナリ式が組み合わされ電化されているが、直接ちょう架式区間の限界に合わせて、最高時速が85kmに抑えられている。

【弥彦線の秘密④】吉田駅を境に大きく変る弥彦線の列車ダイヤ

さて、弥彦線に関わる歴史話が長くなったが、現代に話を戻そう。

 

17.4kmと短い路線だが、弥彦駅〜東三条駅間を通して走る列車の本数は少ない。ほとんどの列車が弥彦駅〜吉田駅と、吉田駅〜東三条駅間というように、別々に運行されている。弥彦駅〜吉田駅間が所要8〜9分ほど。吉田駅〜東三条駅間は約20分と乗車時間は短い。

 

とはいえ、列車の運転日が季節運転や、臨時列車、週末のみ運転という不定期列車が多い。果たしてこの列車は今日走るのだろうかと時刻表を良く確認しておかないと、次の列車まで1時間待ちということになりかねないので注意しておきたい。

 

とくに弥彦駅〜吉田駅間は、平日の日中、2〜3時間ほど列車がない時間帯があるので細心の注意が必要だ。

 

↑弥彦線と越後線が接続する吉田駅。駅構内にはちょうど115系の“弥彦色”と呼ばれる塗装車両が停車していた。地方のターミナル駅とはいうものの、駅前の店舗はみなシャッターが閉まり、寂しい印象だった

 

 

【弥彦線の秘密⑤】JR東日本では希少車となったE127系0番台

走る車両について触れておこう。主力の車両はE127系(0番台)とE129系だ。越後線を走ることが多い115系は、途中の吉田駅構内で見かけることが多いものの、弥彦線では朝夕に走る程度とされる(筆者は視認できず)。

 

↑E127系0番台はJR東日本には4両しか残されていない。そんな希少な車両が弥彦線の主力として使われている。写真は吉田駅の5番線ホームに停車中のE127系

 

E127系0番台は1995年から新潟地区を走り始めた車両。115系では二次新潟色と呼ばれる濃い緑と薄い緑の2色の帯を車体に巻いている。

 

現在、2両編成×2本のみが弥彦線と、越後線の一部の列車に使われている。JR東日本では4両しかない車両である。

 

なぜ少ないのだろう。2015年3月、北陸新幹線の開業に伴い、信越本線と北陸本線の新潟県区間を引き継いだえちごトキめき鉄道に売却されたためだ。E127系0番台の10編成×2両がえちごトキめき鉄道に移っている。

 

よってこの車両デザイン、車両色は弥彦線と越後線でしか乗ることができない。鉄道ファンにとって、ちょっと興味をそそる車両と言って良いだろう。

 

ちなみにE127系には1000番台というデザインなどが異なる車両が2両編成×12本導入され、こちらは長野県内のJR東日本の路線を走っている。

 

↑えちごトキめき鉄道に売却されたE127系0番台。塗装などを変更され、車両形式名もET127系となった。主に妙高はねうまライン(妙高高原駅〜直江津駅間)を走っている

 

 

【弥彦線の秘密⑥】東三条駅の行き止まりホームから旅がスタート

余談が長くなったが、本ローカル線の旅では、弥彦線の終点となる東三条駅からその旅をスタートさせよう。弥彦線は東三条駅で信越本線と接続する。

 

東三条駅のホームは0番線から3番線まであり、弥彦線はおもに0番線から発車する(2番線利用の列車もあり)。駅北口の改札を入ると1番線ホームに出る。0番線はこの1番線の長岡駅側にあり、切欠けと呼ばれるL字形をしたホームで、線路は行き止まりスタイルとなっている。

 

筆者が乗ろうとした列車は0番線に停車中。車両はE127系0番台だった。

 

↑東三条駅北口は2016年4月にリニューアル。地元・三条市は金物業の街で、鍛冶作業の火入れの赤をイメージしたゲート、その上に三条名物の六角凧(だこ)を添えたおしゃれな入口となっている。弥彦線は主にこの北口側からすぐの0番線から発車する(右上)

 

東三条駅13時10分発の弥彦駅行に乗り込んだ。次の列車が15時4分までないので、乗り遅れたら大変だった。

 

乗客は客席のほぼ8割を埋めた状態。週末にもかかわらず学生が多い。信越本線に沿って走り、間もなく高架上を右に大きくカーブして走る。このあたりは都市部の近郊電車の趣だ。

 

次の北三条駅も高架の上にある。しばらく走ると左に川が見えてきて、このあたりから地上部を走るようになる。この左に見えてきた川は信濃川だ。信濃川といえば大河のイメージが強いが、三条付近は、それほど川幅は広くない。

 

その理由は三条市街のやや上流部分で、川がいくつかに分かれているから。前回の越後線でも紹介したが、大河津分水(おおこうづぶんすい)、そして三条市内で中ノ口川(なかのぐちがわ)が分流している。そのため本流にも関わらず川幅があまり広くないのである。

 

ちなみに分流した中ノ口川を弥彦線は燕三条駅〜燕駅間で渡る。

 

またまた余談で申し訳ないのだが、この信濃川と分流する中ノ口川は、戦国時代に越後を治めた上杉家の家老、直江兼続(なおえかねつぐ)が整備したと伝わる。かつては直江川とも呼ばれたそうだ。戦略家であり、素晴らしい行政能力を持っていた兼続の名前が、このようなところに出てきたことに驚かされる。

 

弥彦線は信濃川を見つつ、左にカーブ、流れを渡る。渡ると大型店舗やホテルが連なる街が広がり、間もなく燕三条駅に到着する。

 

 

【弥彦線の秘密⑦】燕三条駅でも直接ちょう架式が確認できる

到着した燕三条駅は、見て回るとなかなかおもしろい駅だ。まずは弥彦線特有の直接ちょう架式の架線が駅中で見ることができる。

 

新幹線の路線と接続する在来線で、この架線方式が使われているのは、全国でもここのみではないのだろうか。北側の地上部に弥彦線のホームがある。階段をあがった階上が燕三条駅の構内となるが、仕切る改札口などはなく、ICカード用の簡易Suica改札機があるのみだ。

 

ちょうど弥彦線の階段を上がり、新幹線の改札口までの間に「燕三条Wing」という観光物産センターがある。ここでは地元製の包丁、食器、カトラリー、ノミなどの道具類など、金物製品をずらり展示、販売されている。見ていてとても興味がそそられる観光物産センターだった。

 

↑燕三条駅は上越新幹線と接続する。2階に観光物産センターなどの施設があり、沿線一の賑わいを見せる。弥彦線のホームは駅の北側、地上部にある。弥彦線の特徴でもあるローリー線1本の直接ちょう架式の架線を見ることができる(右上)

 

観光物産センターの「燕三条Wing」と、新幹線の改札口の間にはコンパクトな赤い鳥居が立てられる。もちろん弥彦線の沿線に彌彦神社(大鳥居を含め)があることをPRする意味を込めて設けられたのであろう。

 

だが、実際に弥彦線に乗ってみると、同路線を使って彌彦神社を参拝する人はきわめて少ないことがわかる。せっかく設けられた構内の鳥居も、PR効果を発揮していないようだった。参拝客が乗らない理由は後述したい。

 

↑燕市内を走る弥彦線。郊外区間では、写真のようにトロリー線1本の直接ちょう架式となっている区間が目立つ。一方、信濃川橋梁(左下)などの鉄橋やカーブ区間、行き違いできる構造の駅ではシンプルカテナリ式の架線が取り入れられている

 

燕三条駅構内でも見かけられた直接ちょう架式の架線の構造。弥彦線に乗っていても、どうも気になってしまう。確認したところ、郊外区間などにこの方式が多く使わる一方で、カーブや鉄橋、行き違い可能な駅などではシンプルカテナリ式となっていた。

 

もし弥彦線で直接ちょう架式の区間を見たい、撮りたいという場合には、燕駅〜吉田駅間といった郊外に出て、田園が広がる区間を訪れた方が賢明かも知れない。

 

 

【弥彦線の秘密⑧】燕駅から走った新潟交通電車線の跡をたどる

新潟県内には東三条駅から旧越後長沢駅間のように、かつて路線があったものの現在は廃線になっているところが多い。

 

弥彦線の燕駅は地元、燕市の表玄関にあたる駅。かつては他社線が乗り入れ、接続駅として賑わいを見せていた。他社線とは新潟交通電車線のこと(開業当時は新潟電鉄線)。新潟交通電車線は燕駅と白山前駅36.1kmを結んだ私鉄路線。白山前駅とは新潟市内にあった駅で、越後線の白山駅近くに設けられていた。

 

燕市と新潟市内を直接に結んだ新潟交通電車線。燕市民にとって全通当初(1933年)は便利な路線だったと思われる。ところが、1960年代以降からは電車や駅の老朽化、新潟市内の路線が一部、道路上を走る軌道線で騒音が問題視されるなど、様々な問題が重なり、客離れが著しかった。燕駅近郊区間は1993年7月いっぱいまで、残った区間も1999年で4月4日に廃止された。

 

↑地元・燕市の表玄関でもある燕駅。駅舎に往時の面影が残る。この駅は弥彦線だけでなく、かつて新潟交通電車線の路線が走り、新潟市内に直接行くことができて便利だった

 

この新潟交通電車線、燕駅近くにも路線の足跡が残されている。地図では、燕駅の西側に元鉄道路線らしいゆるやかにカーブする道が確認できた。

 

気になったので、燕駅の周辺を少し歩いてみた。すると。

 

↑燕駅の西側にかかる跨線橋から吉田駅側を望む。左にあるのが弥彦線の線路。そして右側をかつて新潟交通電車線が走っていた。ちょうど右にゆるやかにカーブする道が電車線の跡だと思われる

 

弥彦線の線路から、徐々に離れて右に大きくカーブする道。車が通るこの道こそ、新潟交通電車線が走った跡そのものだった。カーブの造りが、車道として整備されたカーブ道とは異なる印象。民家もこのカーブに沿うように建っているものの、道側に家の入口がないというような光景も見られた。

 

カーブが終わる付近からは、一部が遊歩道、そして公園となっていた。民家が途切れ、田園が広がるあたりからは、歩道が一直線に先に延びていた。

 

新潟交通電車線は沿線住民から「電鉄」と呼ばれ親しまれたとされる。走っていた当時に訪れ、乗ってみたかったものである。

 

↑燕駅から延びていた新潟交通電車線の廃線跡。一角に電車の架線柱が立っていた。不思議なことにこの1本のみ。コンクリートの柱には碍子(がいし)などが多く残っている。付近には廃線跡を示すような解説などは見当たらなかったのがちょっと残念だった

【弥彦線の秘密⑨】吉田駅から先、観光客も乗り込んだものの

燕駅周辺で廃線を確認した後に、再び弥彦線に乗り込む。燕市街を抜けると田園風景が広がるようになる。

 

西燕駅を過ぎると、さらに田んぼが多くなり左右に広がる風景の中を弥彦線は走る。このあたりは直接ちょう架式の区間で、トロリー線が1本の架線が続く。

 

国道116号の高架をくぐり左カーブ、越後線との接続駅、吉田駅へ到着した。

 

↑吉田駅の5番線に停車中のE127系電車。ホームや駅の規模の大きさに対して、ホームの端に、それこそポツンと2両編成の車両が停まっていた。吉田駅は跨線橋を使っての乗り換えが必要になるが、エレベーターなどの設備がない

 

吉田駅で弥彦駅行きに乗り換える。直通列車が少ないのが残念だ。特に午後、東三条駅15時以降に発車の列車すべてが、吉田駅での乗り換えが必要となる。接続はあまり良いとはいえず、13〜30分以上の待合せ時間が生じてしまう。

 

まあローカル線の旅。あまり焦ってはいけないのかも知れないが。

 

 

【越後線の秘密⑩】観光客に忘れ去られた印象が強い弥彦線

吉田駅を発車した電車は、越後線の線路と平面交差。越後線の線路とクロスしつつ弥彦方面へ向かう。

 

右に民家、左に田園風景を見つつ走ると、右に大きな鳥居が見えてきた。こちらは弥彦名物の一つで高さ30mの大鳥居。上越新幹線の開業にあわせて造られ、完成当時は日本一の高さだったとされる(現在は三位)。

 

大鳥居は県道29号線が下をくぐっているが、下からは先に弥彦山が見える。最寄りの矢作駅からは徒歩で約7分。興味のある方は訪れみてはいかがだろう。ただし、この大鳥居から彌彦神社までは約4km弱あり、ちょっと歩くのがきつい距離だ。

 

↑弥彦駅はホーム一つのシンプルな造り。線路の先に車止めがある。すぐには折り返す列車は少ない。例えば写真の13時46分着の列車は、1時間25分ほど停車したのち、15時11分に弥彦駅を出発する。その間を利用して弥彦近辺の観光を楽しめる

 

矢作駅を発車した列車は左右に緩やかにカーブしつつ、今回のゴールとなる弥彦駅を目指す。正面にそびえる弥彦山が次第に、間近に迫ってくる。

 

弥彦山は標高634mとそれほど高い山ではないのだが、広々した新潟平野から、突如、湧き上がるようで非常に目立つ。

 

それこそ、関東平野一円から富士山が見えるように、新潟平野からは遮るものがなく、弥彦山を様々な箇所から望むことができる。弥彦山には彌彦神社のご祭神、天香山命(あめのかぐやまのみこと)が祀られている。

 

人の心を揺さぶるような威厳を持ち、いわば神々しいという形容詞が似合う山というのは、時代が大きく移り変わろうとも、不変の存在なのだろう。

 

そんなことを思いつつ列車は弥彦駅へ到着した。一部の列車を除き、すぐに折り返す列車は少ない。発車の時間を利用して、弥彦駅をじっくり巡りたい。

↑木造寺社造りの弥彦駅。路線が開業した1916(大正5)年の開業当時の駅舎が残る。2013(平成25)年に全面改修され、きれいになっているが、基本的な構造などには変わりはない。駅構内に売店もあり便利だ。神社ではないもののなぜか手水(ちょうず)があった

 

↑駅舎を正面から撮ってみる。趣のある駅で、撮り甲斐が感じられた。駅前には甘味処などがあるものの、人けはあまりない。鉄道の利用者が少ないことが身にしみて感じられた

 

 

【弥彦駅周辺情報】自然公園や足湯など魅力がふんだんに

弥彦駅近辺でも、見どころはふんだんにあった。まずは駅前広場に足湯がある。2018年夏に生まれた足湯で「湯のわ」と名付けられる。弥彦湯神社温泉の湯が足湯に満ちている。利用は無料。ただし、タオル1枚を持参することをお勧めしたい。

 

駅前、すぐのところには広大な自然公園、弥彦公園もあった。

 

↑弥彦駅の駅前広場に設けられた足湯「湯のわ」。昨年夏にできたばかりで新しく快適。利用できるのは日中のみ。やや湯は熱めに感じた。無料だがタオルを用意して立寄りたい

 

↑駅のすぐそばにある弥彦公園。16万平方mにも及ぶ広い公園で、ツツジや花菖蒲などが季節の草花が楽しめる。秋のモミジのころは絶景に。素晴らしい造りの公園ながら、筆者が訪れた時は、ほとんど人を見かけることがなかった。穴場の名所なのかも知れない

 

さて肝心の彌彦神社は? 弥彦駅から徒歩で15分ほどの距離にある。

 

さらに神社の奥にある弥彦山へ登るロープウェイ山麓場までは20分ほどかかる。そのせいなのか、彌彦神社へは、マイカーや東三条駅からタクシーで訪れる人が多いようだった(路線バスの平日のみで本数は5本のみ)。

 

今回、弥彦駅に下車して、数少ない下りる人の行方を目で追ったが、彌彦神社へ向けて歩く人は少なかった。

 

弥彦線を利用する人が少ないという理由には、現代人は、あまり歩かなくなっているということも理由にあるのだろう。高齢化が進む影響もあろう。さらに弥彦線の各駅には都会の駅のように、エレベーター、エスカレーターがない。足が弱まった高齢者にとって、跨線橋を上り下りする乗り換えが大変なのである。

 

かつては、彌彦神社へ向かうほとんどの参拝者が弥彦駅から歩いたはずである。歩いてこそ、発見できる土地の良さも感じられることがある。時代の変化に納得しつつも、ちょっと残念な思いが残った。

↑創建されて2400年とされる越後一宮 彌彦神社。弥彦山を背景にたたずむ姿は、心を揺さぶるような神々しさが感じられる。弥彦駅からは徒歩約15分の距離がある

 

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