おもしろローカル線の旅60 〜〜明知鉄道明知線(岐阜県)〜〜
岐阜県の東部・東濃(とうのう)を走る明知鉄道。山々そして田畑を眺めながらのどかに走るローカル線である。
この明知鉄道がにわかに注目を集めるようになっている。大河ドラマの主人公である明智光秀のゆかりの地であるからだとされる。ほかにも訪れると沿線には興味深いこと、不思議なことが満載だった。そんな明知鉄道の魅力発見の旅に出かけた。
【関連記事】
三重県と岐阜県を結ぶ唯一の鉄道路線「養老鉄道」10の秘密
【明知鉄道の不思議①】なぜ明知鉄道は「知」、明智駅は「智」?
明知鉄道でまず気になったのが鉄道会社名&路線名と、終点駅の明智駅の漢字が異なることだった。
明知鉄道は国鉄明知線が元になっている。1985年11月16日に国鉄路線から明知鉄道の路線となった。路線名と鉄道会社名は国鉄時代の「明知」がそのまま引き継がれ使われている。一方で、終点の明智駅は、当時の町名、明智町の名前にそろえ、明知鉄道が生まれた日に、「明智」と改名した。その後、明智町は2004年に周辺市町村と合併し、現在、恵那市の一部となっている。
さらに追求すると、明智町は元・明知町で、周辺の町村合併した1954(昭和29)年に明智町と改名した。すでに恵那市の一部となっていることもあり、当時の改名の経緯が定かでない。いずれにしても不思議な「知」と「智」の使い分けである。
さて、ここで明知鉄道明知線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | 明知鉄道明知線/恵那駅〜明智駅25.1km *全線単線・非電化 |
開業 | 1933(昭和8)年5月24日、鉄道省により大井駅(現・恵那駅)〜阿木駅間が開業、1934(昭和9)年6月24日、岩村駅〜明知駅間の延伸開業で明知線が全通。 |
駅数 | 11駅(起終点駅を含む) |
列車はすべてが恵那駅と明智駅を結ぶ列車で、平日14往復、土休日は13往復。列車の間隔はおよそ1時間おき。昼の明智駅発11時27分発、恵那駅12時25分発(曜日を問わず)は一部の駅を通過する急行列車(急行料金は不要)となっている。所要時間は恵那駅〜明智駅間が50分弱だ。
運賃は恵那駅→明智駅が690円で、恵那駅と明智駅で全線の乗り降り自由の一日フリー乗車券1380円が販売されている。
なお、下り急行列車には車内で食事が楽しめる“食堂列車”が連結される(毎週月曜日を除く毎日)。食事内容は季節で異なり、3月までは「じねんじょ列車」となっている。
【明知鉄道の不思議②】光秀は本当にこの地で生まれたのか?
歴史好きにとって気になるのは、明智光秀が果たしてこの地で生まれたかどうかではないだろうか。今年の大河ドラマ「麒麟がくる」では明智光秀の一生が描かれている。光秀の生涯は、前半生が明らかではない。そのため我が地こそ、生誕の地と名乗る所が岐阜県内に複数ある。
簡単に明智光秀の出自について触れておこう。光秀は清和源氏土岐氏の支流・明智氏の血が流れるとされる。「土岐氏流明智氏」を名乗る一族で、明智城を拠点としていた。岐阜を拠点とした斎藤道三に仕えていたが、道三と長男・義龍(よしたつ)との争いの中で、道三側に付いたことから一族が滅ぼされてしまう。その中でかろうじて生き延びたのが光秀だった。
明智城を居城としていた明智氏は滅び、光秀は姿を隠した。一族がちりぢりになったこともあり、光秀の生誕の地も曖昧になっている。資料も残されていない。
地元の恵那市では明知鉄道が通る恵那市明智町こそ、光秀の生誕の地だとアピールしている。明智町内には、それを裏付けるかのように「明智光秀公 産湯の井戸」や、母親の「於牧(おまき)の方の墓所」、「明智光秀公学問所」、「明智光秀公御霊廟」が残る。
ちなみに岐阜県内には、同じ明智駅の名が付く駅が名古屋鉄道広見線にある。岐阜県可児市(かにし)にある駅で、近くには土岐明智氏が築城したとされる明智城がある。光秀の生誕地は恵那市の明智なのか、可児市の明智なのか、果たしてそれ以外のところなのか。光秀にはこうしたミステリアスな一面があり、逆に現代人を引き付ける魅力になっているのかも知れない。
【明知鉄道の不思議③】静岡県から路線が敷かれる予定だった?
昭和初期に誕生した明知線。実は壮大な計画がその元になっている。静岡県の掛川駅から、現在の飯田線の三河大野駅、浦川駅を通り、そして現在の恵那駅までの路線を敷くという計画だった。
静岡県遠州地方(または遠江=とおとうみ)と岐阜の美濃地方を結ぶ路線ということで「遠美線(えんびせん)」と呼ばれた計画線である。この計画線は工事着工前に頓挫したが、その一部が静岡県側では、天竜浜名湖鉄道、そして岐阜側では明知鉄道に受け継がれ、今も利用されている。両鉄道とも第三セクター経営の鉄道路線で、不思議な縁を感じる。
【関連記事】
昭和の風景がそのまま残る「天浜線」11の秘密
ここで明知鉄道を走る車両の紹介をしておこう。
◇アケチ10形
明知鉄道が誕生した当時に導入したアケチ1形に代わって1998年に新造されたアケチ10形。屋根の丸みを帯びた形が特徴となっている。後に全国の第三セクター鉄道に導入された、標準形車両の最初の車両でもある。よって全国には同形の車両が多い。ちなみに急勾配がある明知鉄道の車両は台車には砂撒き装置が付けられている。5両が製造されたが、すでに1両が廃車となっている。
◇アケチ100形
2017年から導入された気動車で明知鉄道では初の18.5mと長めの車体となった。現在は2両が活躍中だ。2両は車体カラーが異なり、アケチ101が、以前のアケチ1形と同じ、クリーム色の車体にオレンジライン。アケチ102がオレンジ色の車体に、クリーム色のラインと真逆の車体カラーとなっている。
【明知鉄道の不思議④】飯沼駅は本当に日本一の勾配駅なのか?
前置きが長くなったが、ここから明知鉄道の旅を始めよう。
旅のスタートはJR恵那駅に隣接する明知鉄道の恵那駅。JR恵那駅の改札口を出たやや東側に駅の入口がある。明知鉄道の恵那駅は、行き止まり方式で、中央本線と併設してホームが設けられる。JRとの連絡改札口もあるが、ICカード読取り機は設置されていない。なお、わずかの区間、中央本線と平行して線路が走るものの、JR線との間を結ぶ線路は敷かれていない。
明知鉄道のホームに停まっていたのはアケチ100形気動車。座席がロングシートなのがちょっと残念だったが、ディーゼルエンジン特有のアイドリング音が、旅の趣を盛り上げる。
乗車したのは13時45分発の明智駅行き11D列車。軽快に恵那駅を発車した。JR中央本線の線路を左に眺め、右へカーブしていく。その後、列車は恵那の市街を右手に見て坂を上り始めた。眼下に田畑を望みつつ、着いたのが東野駅(ひがしのえき)。マンションふうなつくりの介護施設の1階が駅入口ということもあり、ローカル色はまだ感じられない。
東野駅を発車すると、さらに列車は坂を登り始める。そして山あいへ。緩やかなカーブを描きつつ、次第に標高をあげていく。線路脇の勾配標を見ると33パーミルとある。1000m走る間に33mほど標高が上がるということだ。この33パーミルという急な坂。鉄道ではなかなかない。
そうした勾配を登って到着するのが飯沼駅(いいぬまえき)だ。この駅自体が33パーミルという勾配の途中にある。駅は明知鉄道が誕生した後の1991(平成3)年10月28日にできた。急な坂の途中にある駅は通常、認められないために、訪れた監督官庁の運輸省(現・国土交通省)の担当官の前でテストを繰り返し、特例として認められ、ここに駅が新設されたそうだ。
ホームには「勾配日本一の駅」という駅名標が誇らしく立っている。ちなみに現在の普通鉄道の勾配日本一は京阪電気鉄道京津線(けいしんせん)大谷駅で、40パーミルの急勾配の途中にホームがある。1996(平成8)11月16日に71mほどずらしたことにより、この傾斜となった。
明知鉄道の飯沼駅は駅が誕生して5年ほど、日本一の勾配駅だった、というのが正解なのである。ちなみに明知鉄道ではほかにも急勾配途中の駅がある。野志駅(のしえき)がその駅で、こちらは30パーミルの勾配にあり国内3位の勾配駅となる。よって、明知鉄道には日本国内で2位と3位の勾配駅があるということになる。
【明知鉄道の不思議⑤】なぜ岩村にレトロな城下町があるのか
飯沼駅をすぎ飯沼トンネル、野田トンネルの2本を過ぎると次の阿木駅(あぎえき)に向けて下り始める。飯羽間駅(いいばまえき)、極楽駅と小さな駅を停車しつつ走ると岩村駅に到着する。
この岩村駅は明知鉄道の中でも乗降客が多い駅となっている。また同駅では路線内で唯一上り下り列車の交換(行き違い)が行われる。
この岩村駅から徒いて3分ほど。その先に古い町並みが1.3kmにわたって連なっている。岩村本通りと呼ばれる通りで、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。江戸時代には東濃の政治、文化、経済の中心地として栄えた町でもある。
この岩村は東濃の中心地であるとともに、城下町でもあった。町の奥まった山の中にあるのが岩村城で、鎌倉時代に築城された。戦国時代には織田氏、徳川氏、武田氏の攻防の舞台となる。
当時、歴史に姿を現すのが織田信長の叔母、通称おつやの方。幼い城主に代わって政治を司る「女城主」として活躍した。その後に城が武田方に落ち、おつやの方は敵方の武将と結婚。その後、信長により落城、おつやの方は捕らえられ、夫とともに逆さ磔(はりつけ)というむごい方法で処刑された。戦国の世の悲劇がこの城を舞台に繰り広げられたのである。
江戸時代には主に大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)が治めた。そして岩村藩の城下町として明治維新を迎えている。
ちなみに岩村町と大井町(現在の恵那市)間には、1906(明治39)年に岩村電気軌道が開業した。この路線は岐阜県内では最初の私鉄路線で、路面電車が行き来した。当時それだけ岩村は繁栄していたわけだ。ちなみに岩村電気軌道は1935(昭和10)年に、明知線の岩村駅開業の翌年に廃止されている。
【明知鉄道の不思議⑥】駅前温泉もここまでくると特筆もの
岩村の町の規模にびっくりさせられた。ところが、駅が町の外れにあるせいか、明智駅行列車に乗車すると、ほどなく車窓は田園風景一色となってしまう。本当に“大きな町があったのだろうか?”という不思議な印象にとらわれたほどだ。
のどかな風景に包まれてしばらく走ると、花白温泉駅(はなしろおんせんえき)へ到着する。駅を降りてびっくりさせられた。駅名から温泉が近くにあることは推測できるものの、駅の目と鼻の先に温泉があったのだ。全国には駅舎内に温泉施設が併設される駅が無いわけではない。ここは階段を数段下りて、10歩も歩けば玄関なのである。比類なき近さと言って良いだろう。
筆者も話の種にと立ち寄ってみた。入湯料は550円だが、明知鉄道のフリー乗車券を提示すれば100円引きとなる。湯船は内湯のみ。泉質はラドン放射能泉で、pH(水素イオン指数)は9.6という弱アルカリ泉だ。入ると“つるぬる”といった感触があった。
食事処もあり、「山金豚の味噌カツ丼(980円・税別)」や「花白寒天らーめん(600円・税別)」が名物となっている。地元恵那市山岡町の細寒天100%の麺という寒天らーめん。次に行く機会があったら、ぜひとも食べてみたい。
【明知鉄道の不思議⑦】なぜつり革にお笑いタレントの名があるの
明知鉄道もご多分に漏れず全国のローカル線と同じく、赤字体質を抜けることができない。
とはいえ、乗車していて鉄道会社の懸命さが列車内で感じられた。まずは運転士さんがなかなかPR上手である。ちょうどそういう人柄だったのかも知れないが。駅の案内も楽しく聞くことができた。乗り降りする乗客への対応も細かな配慮が感じられた。
ほかに食堂列車の企画などもそうした一連の鉄道会社の懸命さを示す催しだろう。何もやらないよりも、こうした運行する側の熱意が、自然と乗客にも伝わるものだと思う。乗車して応援もしたくなる。
他に興味深かったのは、つり革。お笑いタレントが描いた「彼氏大募集中!!」とい書かれたつり革があった。さてどうして?
つり革を手ごろな広告媒体として利用していたのである。両面1セット1年間5000円で募集していた。「彼氏大募集中!!」には、思わずにっこりさせられた。
【明知鉄道の不思議⑧】構内に停まるSL・C12形は?
楽しい運転士の対応に耳を傾けつつ、終点を目指す。花白温泉駅の次は山岡駅。この駅には隣接して地元・山岡の名物、寒天のデザートや細寒天を使った料理を提供する山岡駅かんてんかん「寒天カフェ&レストラン」がある。
さらに次の駅は野志駅で前述したように、ここは全国第3位という30パーミルという急勾配にある駅だ。明知鉄道には個性的な駅が多いのである。
下り急勾配を下っていくと、ほどなく町並みが見え初め明智駅へ到着した。ホーム1面の小さめの駅だが、奥には明知鉄道の車庫がある。そして明知鉄道の多くの車両が停められている。
その中で気になるのはやはりC12形蒸気機関車だ。国鉄明知線などを走った蒸気機関車で、ナンバーはC12の244号機。引退後、地元の明智小学校で保存されていたものだ。現在は圧縮空気を動力にして構内を走る状態に整備されている。そして定期的に車掌車を連結した「SL乗車体験」や、「SLミニ体験運転」が行われる。昨年は「SLふれあい整備体験」も催された。
将来的に明知鉄道では、C12形蒸気機関車を整備して、動態保存車両として走らせたいという意向もあるとされる。
【明知鉄道の不思議⑨】明治・大正時代の建物が多く残る明智
終点の明智駅の近くには、大正時代の面影を色濃く残す建物が多く残る。そのため町の一角を「日本大正村」として売り込んでいる。
たとえば中心となる建物「日本大正村役場」は瓦葺き寄せ棟造りの2階建て木造洋館で、元は1906(明治39)年築と古いもの。1957(昭和32)年までは旧明知町の役場として使われていたそうだ。
隣接する元小学校跡は絵画館として使われている。そこまでの小道は大正路地と名付けられる。石畳が敷かれ趣ある坂道だ。町内に大規模な開発の手が入らず、手付かずだったために、こうして古い町並みが残ったのだろう。駅からは、この日本大正村役場までは徒歩で5分ほどなので、訪れた時はぜひ足を向けてみたい。
大正ロマン村への入口には「大正村浪漫亭」という施設もあり、レストランやカフェ、ショップもあって、ひと休みに最適だ。
【明知鉄道の不思議⑩】明智の町で見かけた「へぼ」って何?
さて明知町内をぶらりと歩いていて、とても気になる看板を見つけた。「ヘボあります」という店先にかかげられた看板。さて「ヘボ」とは何だろう?
「ヘボ」とはクロスズメバチの子だそうだ。「ヘボ」は海の無い東濃では貴重なたんぱく源として珍重され、甘露煮や味飯にして食べられた。「へぼ料理」という呼び方もあるそうだ。
かつて筆者は岐阜県と山続きの愛知県側で、同じく蜂の子「ヘボ」を食べ、ハチを追う風習があることを聞いた。その方法はまず、クロスズメバチに紙片付きの肉団子をくわえさせることから始まる。翔んだハチをみんなで追い、巣を見つけるのだという。これがこの地方の昔ながらのレジャーになっている。巣を見つけたならば掘り出して、ごちそうとしていただくのだそうだ。
明智駅がある恵那市内では、巣をさらに自宅で大きく育てる風習があるのだとか。秋には巣の重さを競うコンテストも開かれるそうだ。
ローカル線の旅をしていると、こうした地域限定の言葉や、風習に巡りあうことがある。これがローカル線の旅のだいご味と言って良いのかも知れない。ヘボの話を聞いた時に、では、といってご相伴に預かったのだが、いただいた記憶は残念ながら忘れてしまっている。果たして美味しかったのかどうか、今となってはまったくの謎である。
【ギャラリー】