乗り物
鉄道
2020/2/23 19:00

列島最西端を走る鉄道線「松浦鉄道」――興味深い11の真実

おもしろローカル線の旅61 〜〜松浦鉄道西九州線(佐賀県・長崎県)〜〜

 

九州の北西、北松浦半島をぐるりと巡る鉄道路線がある。路線の名は松浦鉄道西九州線。第三セクター経営で運行されるローカル線である。

 

2本の線路上を走る鉄道の中では、日本列島の最西端を走る路線でもある。この路線、生い立ちだけでなく、興味深い事柄が多い。歴史をたどると、産業そしてエネルギーの転換に大きく影響されたことが分かる。時代とともに姿を変えていった松浦鉄道の旅を楽しんだ。

 

【関連記事】
波穏やかな大村湾を眺めて走るローカル線「JR大村線」10の秘密

↑北松浦半島の山々や海を眺めて走る松浦鉄道西九州線。車両の大半はMR-600形で、同車両が1両もしくは2両で走る

 

 

【松浦鉄道の真実①】紆余曲折の末に32年前に松浦鉄道に

松浦鉄道西九州線は佐賀県の有田駅と長崎県の佐世保駅を結んで走る。その距離は、93.8kmとかなり長い。32年前に国鉄松浦線(1年間のみJR九州が受け継ぐ)から第三セクター経営の路線に転換された。

 

路線は有田駅〜伊万里駅間と佐世保近郊で、まず線路が敷かれた。全通した後には国鉄松浦線となった。松浦という地名が松浦鉄道にもそのまま引き継がれた。

 

「松浦」という地名は、この地方と縁が深い。まず半島の名前は北松浦半島と呼ばれる。さらに長崎県の北部、佐賀県北西部に松浦という郡があった。戦国時代までは松浦党と呼ばれる武士団(水軍)も、この地を本拠としていた。西九州線という路線名が付くものの、この路線名よりも、松浦鉄道(愛称はMRもしくはMR鉄道)の方がより浸透しているように感じた。

 

 

ここで松浦鉄道西九州線の概要を見ておきたい。

路線と距離松浦鉄道西九州線/有田駅〜佐世保駅93.8km *全線単線・非電化
開業1898(明治31)年8月7日、伊万里鉄道により有田駅〜伊万里駅間が開業、1944(昭和19)年4月13日、潜竜駅(現・潜竜ヶ滝駅/せんりゅうがたき)〜肥前吉井駅(現・吉井駅)間の延伸開業で松浦線が全通
駅数57駅(起終点駅を含む)

 

全線を通して走る列車は無い。伊万里駅で、有田駅〜伊万里駅間と、伊万里駅〜佐世保駅間を走る列車に分けられている。有田駅〜伊万里駅間は列車本数が多く30分〜1時間おき。伊万里駅から先は、佐世保駅〜佐々駅(さざえき)の間で運行される列車が多く、同区間は伊万里駅まで走る列車を含めると20〜30分おき、佐世保駅〜伊万里駅間を走る列車は約1時間おきに走っている。

 

また佐世保駅からはJR佐世保線の早岐駅(はいきえき)まで1往復の乗入れ列車も運行されている。

 

ローカル線としては列車の本数も多めで、比較的便利な路線である。所要時間は、有田駅〜伊万里駅間が約30分、伊万里駅〜佐世保駅間は約2時間30分だ。通して乗ると、最低3時間と、かなりの時間がかかる。有田駅から佐世保駅へは、JR佐世保線を使ったほうが圧倒的に早く(特急列車で30分弱)、松浦鉄道の全線を通して乗る人は、ほとんどが鉄道ファンだ。

 

松浦鉄道の旅に便利な1日乗車券は2,000円が販売されている。ちなみに佐世保駅から最も西にある駅、たびら平戸口駅までは1340円、有田駅からたびら平戸口駅までは1570円となる。全線を通して乗る場合には1日乗車券の方がお得になる。同乗車券は有人駅だけでなしに、列車内でも販売していて便利だ。

【松浦鉄道の真実②】磁器と石炭の輸送用に路線が敷かれた

松浦鉄道の興味深いところは、その生い立ちだろう。有田駅〜伊万里駅間と、佐世保近郊では、路線を設けた理由、そして線路を敷設した会社が異なる。

 

有田駅〜伊万里駅間の開業は1898(明治31)年とかなり古い。伊万里鉄道によって線路が敷かれた。明治時代、外貨を得る役割を果たしたのが、陶磁器だった。中でも有田で生み出される磁器は、海外での評価が高かった。江戸時代に生み出された有田の磁器だが、内陸にあったため、海に面した伊万里まで運ばれて、海外へ輸出された。この磁器の輸送に使われたのが、旧伊万里線(現在の有田駅〜伊万里駅間)だった。

 

一方、佐世保近郊の路線はどのような理由で誕生したのだろうか。

↑佐世保中央駅にある案内。昭和初期に珍しかった高架橋やトンネルで結ばれた路線ということで日本遺産に指定される

 

佐世保近郊の路線は1920(大正9)年3月27日、佐世保軽便鉄道という会社が相浦駅〜大野駅(現・左石駅)〜柚木駅(ゆのきえき/現在は廃駅)に路線を敷設したことにより始まる。当時の路線は軌間762mmと狭い軽便鉄道サイズだった。この鉄道は、この地区に点在する炭田で採掘された石炭を港まで運ぶために設けられた。

 

佐世保軽便鉄道は、名を佐世保鉄道と改めた後の1936(昭和11)年10月1日に国有化された。国鉄の既成路線とそろえるために、1067mmに改軌された。さらに北松浦半島に点在した炭田で採炭された石炭を、軍港の町・佐世保へ送るために、急ピッチで路線の変更と延伸工事が行われた。そして1944(昭和19)年4月13日に現在の松浦線が全通している。

 

戦時色を強めた時代、路線の整備はかなり無理をして進められたようだ。佐世保市内では住宅密集地に鉄道を通すために高架化、トンネルを貫いて路線とした。最後に残った区間の橋には、鉄筋の代わりに竹を利用するなど、今では考えられない工法で造られた橋すらある(詳細後述)。

 

松浦鉄道はそうした時代を生きた人々の思いが詰っている路線なのである。

 

【松浦鉄道の真実③】世知原線などの支線はすべて廃止された

旧松浦線は全通したころ、支線がいくつか設けられていた。肥前吉井駅(現・吉井駅)〜世知原駅(せちばるえき)間を世知原線が、佐々駅〜臼ノ浦間を臼ノ浦線(うすのうらせん)、左石駅〜柚木駅間を柚木線(ゆのきせん)が敷かれていた。みな石炭を運ぶために造られた路線である。

 

この支線はその後、どうなったのだろう。柚木線は1967(昭和42)年に、世知原線、臼ノ浦線は1971(昭和46)年に、いずれも廃線となっている。

 

北松浦半島に広がる松浦郡には多くの炭鉱が点在していた。北松炭田(ほくしょうたんでん)と呼ばれ、1950年代中ごろの最盛期には、炭鉱が98カ所もあった。そして約1万8千人の従業員が採炭に従事していた。そうした炭鉱も、石炭から石油へエネルギー需要が大きく変わっていき、1973(昭和48)年に鹿間町(しかまちょう/現・佐世保市)の本ヶ浦鉱の閉山により北松炭田は消滅している。

 

松浦線の沿線は採炭最盛期から20年もしないうちに、エネルギーの変革の大きな波にのまれていった。当時の地域経済は大変だったに違いない。

↑旧世知原駅構内にあるC11形蒸気機関車の動輪。近くに世知原炭鉱資料館(右下)があり、世知原線や炭鉱の資料を展示している

 

筆者は世知原線が通っていた世知原(現在は佐世保市世知原町)を訪ねてみた。路線跡はほとんどが遊歩道となり、かつてここに線路が敷かれていたことを偲ばせる。世知原駅の跡には蒸気機関車の動輪が置かれていた。旧炭鉱町にかつての賑わいはない。現在の世知原の主力産業は農業で、冷涼な気候を活かし、高級な「世知原茶」の産地となっていた。

 

 

【松浦鉄道の真実④】乗りやすい2人掛け+1人掛けのシート

ここで松浦鉄道を走る車両の紹介をしておこう。松浦鉄道は愛称をMRとしているため、車両の形式名は数字の前にすべてMRが付いている。

 

◇MR-600形

↑ライトグレーの細い帯を巻くMR-600形。ほかに橙の帯の車両が走る。総計で21両が在籍。主力車両として活躍している

 

愛称は「肥前WEST LINER」で、車体の側面に同文字が入る。車体の長さは18m、窓部分はブラック、その下にライトグレーもしくは、橙(だいだい)色の細い帯を巻く。橙色の帯は沿線の西海の海と九十九島(つくもじま)の夕映えをイメージしているとされる。

 

座席はセミクロスシートで、ロングシートと、4人掛け(2列×2)の対面形のボックス席8席と、1人掛けシート4席が並ぶ。ボックス席が通路の左右にある車両と異なり、通路が広く乗りやすい車両だと感じた。なおトイレは備えていない。

 

◇MR-500形

↑レトロな姿のMR-500形はイベント列車として走ることも多い。右上はMR-400形でこちらも1両のみが在籍している

1両のみ在籍するレトロタイプの車両で、愛称は「レトロン号」。座席は転換クロスシートで、松浦鉄道の車両の中で唯一、トイレを備える。通常は普通列車として走るが、カラオケ装置も搭載するために、イベント列車やレンタル列車(団体旅行、歓送迎会などに貸し出す)にも活用されている。

 

◇MR-400形

MR-500形と同じく1両のみ在籍する。松浦鉄道が誕生した頃の白い車体に、赤と紺色の2本の帯を巻く姿が特徴となっている。座席はセミクロスシート、中央部分にボックス席が4組、設けられる。

【松浦鉄道の真実⑤】日本一短い駅間はぜひ歩いて確認したい

ここから松浦鉄道の旅を始めよう。

 

路線の起点は有田駅ながら、本原稿では佐世保駅からスタートしたい。松浦鉄道の列車は高架上にある佐世保駅の1・2番線ホームから発車する。JR佐世保駅の1・2番線の西側に連なるようにホームが設けられている。JRとの乗換口があり便利だ。地上の自由通路から直接、松浦鉄道の構内に入る乗降口も設けられている。

 

列車は左手に佐世保港や佐世保川、そして大小の商業ビルを眺めつつ発車した。

↑佐世保駅の西側にある松浦鉄道のホーム。1・2番線ホームのうち、早朝に発車する快速列車は主に2番線から発車する

 

佐世保駅の次の駅は佐世保中央駅だ。この佐世保中央駅と隣の駅、中佐世保駅の間はわずかに200mしかない。200mという距離は普通鉄道の中で日本一短い。ちなみに筑豊電気鉄道の黒崎駅前駅〜西黒崎駅間と同距離だ。筑豊電気鉄道の場合は、路面電車タイプの車両が走る鉄道路線だけに、普通鉄道用の車両が走る松浦鉄道のこの区間は日本最短の駅間と言ってしまって良いだろう。

 

この最短の駅間が歩いてみたく、佐世保中央駅で降りた。ホームの前に大形ショッピングセンターの壁があり、閉塞感を感じた。線路は高架上にあり、階段を下りると駅入口という造りだ。家々の奥に駅があり、ちょっと分かりにくい。

 

駅から小道を降りていくと、四ヶ町商店街(よんかちょうしょうてんがい)に出る。この商店街はつながる三ヶ町商店街(さんかちょうしょうてんがい)をくわえると直線で960mにもなり、アーケード街としては日本一の長さ(※切れ目がない直線に連なった複数の商店街のアーケードの総延長として)になるだそうだ。両商店街を合わせて「さるくシティ4○3(よんまるさん)」の名が付いている。佐世保中央駅は同商店街を利用する人が多く乗り降りする駅でもある。そうした経緯もあり、駅には「日本一長い『さるくシティ4○3アーケード』の駅」という“長い”愛称が付いている。

↑日本一、駅間が短い佐世保中央駅(左下)と中佐世保駅(右上)。途中には島瀬町橋梁・高架橋が架かる。この造りにも注目したい

 

立派なアーケードのある四ヶ町商店街を横切り、中佐世保駅を目指す。すぐに幹線道路・国道35号の交差点へ。ここで左を見ると、松浦鉄道の高架橋と国道が交差していることが分かる。この橋、橋梁自体は新しくなっているものの、橋桁部分が古く感じる。日本遺産の史跡にも指定されている構造物だ。

 

交差点を渡り、直進して本島町内の道を歩いて行く。地図で確認すると、中佐世保駅はこのあたりのはずだが。通りのどこにも駅の案内がない。すぐには見つからずにウロウロ。このあたりだろう、と駐車場横の小道を抜けて行くと、駅にあがる小さな階段を見つけた。中佐世保駅はそれこそ街中の秘境的な趣のある駅だった。

 

ホームから200m手前の佐世保中央駅が見えるかな、と西側をのぞき込む。ところが、わずか200mなのに隣の駅が見えない。線路が心持ちカーブしていて、また建物がすき間なく立ち並んでいるせいもあり見えなかった。200mの距離なのに摩訶不思議な“最寄り駅”だった。

 

 

【松浦鉄道の真実⑥】かつて支線が出ていた左石駅、佐々駅に注目

さて、中佐世保駅からたびら平戸口駅行き列車に乗り込んだ。

 

平日の早朝だったこともあり、高校生の姿が目立つ。とはいえそれほど混んではいない。中佐世保駅を発車すると、トンネルを抜け高架線を走る。車窓からは山の上まで連なる家並みが見える。

 

北佐世保駅など佐世保市街にある駅をいくつか通り、左石駅(ひだりいしえき)へ。この駅の手前で路線は大きく左にカーブする。ちょっと不思議な曲がり方だ。

 

この左石駅、佐世保軽便鉄道が開業させた最初の路線部分にあたる。当時はこの駅の東にある柚木(ゆのき)まで、そしてこの先、7つめの駅、相浦駅(あいのうらえき)まで路線が敷かれた。相浦駅は相浦港に隣接している。柚木周辺で採炭された石炭輸送のため路線が敷かれたのだった。

 

佐世保駅〜左石駅間が南北に路線が走るのに対して、左石駅〜相浦駅間の方向が変わり東西に路線が走る理由は、この生い立ちが絡んでいる。

↑左石駅の佐世保方面行きホームを望む。写真の手前方向に支線の柚木線が延びていた。広い構内が貨物輸送盛んな往時を偲ばせる

 

左石駅からいくつかの駅を停まるうち、乗車する高校生が増えていき、列車はほぼ満員となる。相浦駅から先は、佐々浦に沿って路線は北へ向かい走り始めた。4つほどで佐々駅(さざえき)に到着した。ここには佐々車両基地がある。佐世保駅発の列車には佐々駅止まりが多い。

 

この佐々駅からもかつて支線が延びていた。臼ノ浦線(うすのうらせん)がその支線で、この駅から南西方向にある臼ノ浦へ向けて列車が走っていた。臼ノ浦には臼ノ浦港があり、ここから石炭が運び出されていた。

 

貨物輸送が廃止されたのは、意外に早く1962(昭和37)年のこと。貨物輸送が途絶えたものの、すぐには廃止されず1971年まで路線は存続された。

↑松浦鉄道唯一の車庫・佐々車両基地。佐々駅に隣接していて車両の出入りが望める。臼ノ浦線はこの左手の方向へ延びていた

【松浦鉄道の真実⑦】今や貴重な竹筋コンクリート製の福井川橋梁

高校生で混みあっていた列車だったが、次の清峰高校前駅(せいほうこうこうまええき)でほとんどが下車してしまった。駅名に高校名が付くことからも分かるように、近くには県立高校がある。松浦鉄道の平日の朝夕は、こうした沿線の学校へ通う利用者が多いことが分かった。高校生が降りた列車は、ローカル線らしい印象がより強まった。

 

さて清峰高校前駅から2つめ、吉井駅に到着した。この駅もかつて世知原線という支線が分岐していた。構内は非常に広々している。かつて構内に貨車が多く停められていた様子が偲ばれる。

↑世知原線が分岐していた吉井駅はのどかな趣の駅だった。左上2枚の写真は潜竜ケ滝駅間にある吉井川橋梁と吉田橋梁

 

この吉井駅と隣の潜竜ケ滝駅(せんりゅうがたきえき)間は、旧松浦線で最後に開業した区間だ。吉井駅が誕生したのは1933(昭和8)年、潜竜ヶ滝駅(開業当初は潜竜駅)は1939(昭和14)年のことだった。ところが両駅を結ぶ路線は1944(昭和19)の開業と、かなりの時間を要した。なぜだったのだろう?

 

両駅の間には吉井川、福井川といった河川が流れる。この河川を渡る架橋工事に手間取ったためだった。当時、鉄が枯渇していた。そのため架けられた吉井川橋梁、吉田橋梁、福井川橋梁の3つの橋には鉄筋の代わりに竹が使われたとされる。言わば竹筋コンクリート造りの橋なのである。

↑アーチ形の形状が美しい福井川橋梁。県道40号線の上にあって良く目立つ。3つの橋の中では67mと最も長い

 

当時の竹筋コンクリートの強さを実証する学者の論文もあるが、太平洋戦争後は、手間がかかることもあり、すっかり廃れてしまった。実際に竹が使われているかどうか調査も行われたが、はっきりしなかったそうだ。しかし、こうして残り現役の鉄道橋として使われている。今となっては国の登録有形文化財にも指定される貴重な工法を用いた橋なのである。

 

 

【松浦鉄道の真実⑧】最西端の「たびら平戸口駅」はこんな駅

吉井駅を過ぎると、沿線ののどかさが増していく。山間部と縫って走る路線の傍らには田畑が連なる。すえたちばな駅で海(江迎湾/えむかえわん)をわずかに見た列車は、再び山中へ入り、列島最西端の駅・たびら平戸口駅を目指す。

 

北松浦半島の北西端をかすめるようにしてたびら平戸口駅へ到着する。駅は列島最西端の駅だが、路線はさらに平戸瀬戸に沿うようにしてカーブして駅構内に進入している。駅の西側が列島の最西端の線路となるわけだが、緑濃い樹林に覆われている。車窓から平戸島などの眺望が望めないのがちょっと残念だ。

↑たびら平戸口駅の全景。ホームは2面あり、左に駅舎がある。こうして眺めると最果て感があるものの、駅前は意外に開けている

 

たびら平戸口駅止まりの列車に乗車したこともあり、駅近くを歩いてみた。平戸島への渡船や平戸大橋が望める田平港へは駅から徒歩約9分、800mほどの距離だ。田平港の目の前に平戸瀬戸があり、漁港らしい趣満点。港には市場もあり、地の魚が楽しめる食堂もあった。

↑たびら平戸口駅の西側カーブ区間が列島最西端の線路となる。残念ながら樹林に包まれ平戸大橋(右上)は望めない

 

↑たびら平戸口駅前に立つ日本最西端の駅の碑。人懐っこい猫がカメラを見つめポーズ。駅舎内には鉄道資料館(左上)もある

 

念のため補足すると、沖縄都市モノレール線の那覇空港駅が日本最西端の駅となっている。たびら平戸口駅にしても、那覇空港駅にしても、鉄道好きにとっては最果ての駅まで来たという感慨は、それなりに浮かんでくるように感じた。

 

【松浦鉄道の真実⑨】海近くを走るものの海が意外に見えない

たびら平戸口駅を発車すると列車は東に向けて走り始める。地図上では玄界灘に沿って走る松浦鉄道だが、海岸線から離れた位置をこの先、走るため、山なかの風景がしばらく続く。

 

松浦駅を過ぎるあたりから海が少しずつ見えるようになる。松浦駅の次の駅は調川駅(つきのかわえき)。駅名標には「日本一のアジ・サバ水揚げ基地」と書き込まれる。地元の調川港はアジ・サバの水揚げが多い港なようだ。

 

車窓から最も海景色が楽しめるのは、この調川駅の隣、前浜駅と鷹島口駅(たかしまぐち)の間だ。並走する国道204号よりも海側に線路が通ることもあり玄界灘と、沖に浮かぶ、飛島や鷹島などの島影が良く望める。

↑前浜駅〜鷹島口駅間は最も海景色が楽しめる区間。海上に浮かぶ島々も良く見える

 

鷹島口駅の先、今福駅〜福島口駅間で長崎県から佐賀県へ入る。佐賀県に入った浦ノ崎駅から波瀬駅(はぜえき)間でも海景色が楽しめる。この区間は玄界灘から伊万里湾の眺めとなる。海越しに石油ガス備蓄基地や造船所のドックが見えるなど、前浜駅付近とは異なる海景色となる。

 

 

【松浦鉄道の真実⑩】JR駅より賑わう松浦鉄道の伊万里駅

海景色を楽しむうちに伊万里の平野部に入ってきた。有田川を渡り、有田駅からの路線と合流し、伊万里駅に到着する。

 

伊万里駅で、JR筑肥線の伊万里駅と接続する。接続しているのだが不思議な構造をしていた。松浦鉄道とJR筑肥線の伊万里駅は共に地上駅なのだが、線路はつながっていない。

 

松浦鉄道の伊万里駅(西駅)を出ると、目の前に伊万里大通り(県道240号線)が貫いている。この通りの向こう側にJRの伊万里駅(東駅)がある。両駅には2階があり、跨線橋(ペデストリアンデッキ)で両駅が結ばれている。2階へのエレベータがあるものの、目の前に駅があるのだから、横断歩道で結んでも良いように感じた。

↑松浦鉄道の伊万里駅。2面のホームがあり、おもに2番線がたびら平戸口・佐世保方面行き。3番線(左側)が有田行きの列車が発着する

 

↑おしゃれな造りの伊万里駅。西駅(左側)が松浦鉄道の駅で、デッキで結ばれた東駅(南側)がJR筑肥線の駅となっている

 

道路一つ隔てたJRと松浦鉄道の伊万里駅だが、松浦鉄道の駅の方がより賑やかだ。列車の発着本数も極端に異なる。有田方面へは30分〜1時間おき、佐世保方面へもほぼ1時間おきに列車が発車する。一方のJR筑肥線の列車は西唐津駅行(もしくは唐津駅行)が日に9往復のみである。

 

博多駅から伊万里駅までは、JR佐世保線+松浦鉄道経由の方が、圧倒的に便利なこともあり、この賑わいの差にもはっきり現れていた。

 

 

【松浦鉄道の真実⑪】大正初期の建築!鄙びた趣が魅力の蔵宿駅

松浦鉄道の伊万里駅は行き止まり式の駅である。たびら平戸口駅方面から乗車、伊万里駅で乗り換えて有田駅へ向かう時は、同じ区間を再び戻るようにして走り出す。

 

有田駅行の列車はたびら平戸口駅方面への線路と途中で分かれ、左にカーブして南西へ向かう。有田川と出会い、ひたすら川に沿って進んでいく。松浦鉄道が通る右岸(東側)は腰岳の山麓ということもあり、人家は少ない。緑に包まれた車窓風景が続く。

 

腰岳の山麓から平野部に出ると磁器の生産地、有田町へ入る。最初の駅が夫婦石駅(めおといしえき)だ。有田町内に入ったこともあり、沿線には大小の工場や工房が多く見られるようになる。

↑大正期に建てられた駅舎が残る蔵宿駅。写真は2013年夏に訪れた時のもの。現在、駅舎の形は変らずだがホームが改修されている

 

有田駅までは列車の本数も多い。そこで途中駅で降りてみてはいかがだろう。中でも蔵宿駅(ぞうしゅくえき)がお勧めだ。駅舎は1913(大正2)年に建築されたとされる。貴重な国鉄時代の面影を残す駅である。

 

蔵宿駅を発車すると左にカーブ。伊万里から平行して走ってきた国道202号から離れ、有田町の中心部へ向かう。三代橋駅(みだいばしえき)の先で、JR佐世保線と合流する。JRの線路に沿って1kmほど走れば有田駅に到着する。

↑JR佐世保線の特急停車駅・有田。松浦鉄道の列車はJR佐世保線のホームに併設された3番線から発着する(左上)

 

有田といえば磁器生産の発祥の地とされている。有田町内でも特に磁器工房が多いのは、有田駅の隣、JR佐世保線の上有田駅(普通列車のみ停車)の近く。明治期に建ったともされる駅舎から老舗工房が連なる皿山通りなどの見どころも近い。時間に余裕がある時には、ぜひともお勧めしたいエリアである。

 

【ギャラリー】