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2020/10/25 18:30

「白新線」‐‐11の謎を乗って歩いてひも解く

おもしろローカル線の旅68 〜〜JR東日本・白新線(新潟県)〜〜

 

新潟駅と新発田駅を結ぶ白新線(はくしんせん)。特急列車に観光列車、貨物列車が走る賑やかな路線である。これまでは車両を撮りに訪れた路線であったが、今回は複数の途中駅で降りて、駅周辺をじっくりと歩いてみた。

 

すると、これまで気付かなかった同線の新たな魅力が見えてきたのだった。白新線でそんな再発見の旅を楽しんだ。

*取材撮影日:2018年3月3日、2019年7月6日、2020年10月18日ほか

 

【関連記事】
東日本最後の115系の聖地「越後線」−−新潟を走るローカル線10の秘密

 

【白新線の謎①】なぜ路線名が白新線なのだろう?

初めに白新線の概要を見ておきたい。

路線と距離JR東日本・白新線/新潟駅〜新発田駅(しばたえき)27.3km
*複線(新潟駅〜新崎駅間)および単線・1500V直流電化
開業1952(昭和27)年12月23日、日本国有鉄道により葛塚駅(くずつかえき/現・豊栄駅)〜新発田駅間が開業、1956(昭和31)年4月15日、沼垂駅(ぬったりえき/現在は廃駅)まで延伸開業
駅数10駅(起終点駅を含む)

 

まずは、この路線の最大の謎から。路線名はなぜ白新線と付けられているのか、白新線の「白」はどこから来たのか、そこから見ていこう。

 

まず、路線計画が立てられたところに、白新線と名付けられた理由がある。路線の計画が立てられたのは1927(昭和2)年のこと。「新潟県白山ヨリ新発田二至ル鉄道」という路線案が立てられた。白山と新発田を結ぶ路線なので白新線となったのである。

 

白山とは、現在の越後線の白山駅のことだ。計画が立てられた年は、ちょうど柏崎駅と白山駅を結ぶ越後鉄道が、国有化されて越後線となった年である。国は、越後線の新潟方面の終点駅だった白山駅と、新発田駅を結ぶ路線の計画を立てたのだった。

 

だが、そこに立ちはだかるものがあった。新潟市を流れる信濃川である。信濃川は日本一の長さを誇る河川であり、当時の河口部は川幅も広く、水量も豊富だった。鉄道にとって越すに越されぬ信濃川だったわけである。

↑昭和初期と現代の信濃川の流れを比べると、昭和初期の信濃川は現在の3倍近くの川幅があった。旧信越本線のルートも今と異なっていた

 

1929(昭和4)年に大河津分水(おおこうづぶんすい)という信濃川の水を途中で日本海へ流す流路が作られ、新潟市内を流れる信濃川の水量が大幅に減った。その後、川の南岸が主に改修され川幅が狭まり、ようやく越後線の信濃川橋りょうを架けることが可能となった。とはいえ越後線の路線が新潟駅まで延ばされ旅客営業が始まったのは1951(昭和26)年のこと。この年、ようやく信濃川橋りょうを生かして、新潟駅と関屋駅(白山駅の隣の駅)間に列車が走ったのだった。

 

とはいえ白新線は、まだ開業していない。白新線の開業を困難にしていたのも大河の存在だった。

↑新潟駅からは信濃川橋りょうを渡った最初の駅が越後線の白山駅(左上)だ。白新線は白山駅と新発田駅を結ぶ予定で計画が立てられた

 

【白新線の謎②】開業してから60年と意外に新しい理由は?

越後線がようやく新潟駅まで開業した翌年の1952(昭和27)年の暮れ、白新線の葛塚駅(現・豊栄駅)と新発田駅の間が開業している。新潟駅側からではなく、新発田駅側から路線が敷設されていったわけである。白新線の残り区間、葛塚駅〜新潟駅間、正式には沼垂(ぬったり)駅〜葛塚駅間が開業したのは4年後の1956(昭和31)年4月15日のことだった。

 

新潟市と新潟県の北部や庄内地方、秋田への幹線ルートの1部を担う路線だけに、この開業年の遅さは不思議にも感じる。そこには鉄道の敷設を妨げる大きな壁があった。

↑白新線のなかでひと足早く開業した葛塚駅(現・豊栄駅)。南口駅前には路線開業を祝う碑や当時のことを伝える案内などがある

 

新潟平野には信濃川とともに大河が流れ込む。阿賀野川(あがのがわ)である。阿賀野川は、群馬県と福島県の県境を水源にした一級河川。途中、只見川などの流れが合流し、河川水流量は日本最大級を誇る。実際、新潟市内を流れる河畔に立ってみるとその川の太さ、河畔の広さにびっくりさせられる。この水量の豊かさから、古来、水運が盛んで、鉄道が開業するまでは会津地方の産品はこの川を使い運ばれていた。

 

そんな阿賀野川が鉄道を敷設する上で難敵となった。阿賀野川を越える鉄道路線としては羽越本線(当時は信越線)の阿賀野川橋りょうの歴史が古い。1912(大正元)年、新津駅〜新発田駅間が開業に合わせて設けられた。全長1229mという長さがあり、当時としては全国最長の橋となった。現在の白新線の橋りょうよりも上流にあるにもかかわらずである。

 

架橋技術が今ほどに進んでいない時代、大変な工事だったに違いない。国鉄(当時は鉄道省)は下流に白新線の2本目の橋を架けることはためらったようだ。とはいえ、1940(昭和15)年には橋の着工を進めていた。ところが、翌年に太平洋戦争に突入したこともあり、資材不足となり、橋脚ができたところで、建設中止に追い込まれている。

↑長さ1200mと、在来線ではかなりの長さを持つ白新線の阿賀野川橋りょう。河畔が広く川の流れはかなり先へ行かないと見えない(右上)

 

阿賀野川橋りょうの建設が再開したのは大戦の痛手からようやく立ち直り始めた1953(昭和28)年のこと。橋脚がすでに造られていたので、翌年には架橋工事が完了している。戦前に無理して進めていた工事が、後に役立ったわけである。そうして白新線の全線が1956(昭和31)年に完成にこぎつけた。当初、単線で造られた阿賀野川橋りょうだが、1979(昭和54)年には複線化も完了している。

 

【白新線の謎③】走る車両はここ5年ですっかり変ってしまった

本章では走る車両に注目したい。走る車両に謎はないものの、実は5年前と、今とでは、ことごとく走る車両が異なっている。複数の車両形式が走る線区で、ここまで徹底して車両が変わる線区も珍しいのではないだろうか。写真を中心に見ていただきたい。まずはここ最近まで走っていて、撤退した車両から。

 

◆白新線から撤退した車両

・485系〜 
国鉄が1968(昭和43)年から製造した交流直流両用特急形電車。交流50Hz、60Hz区間を通して走れ便利なため、全国で多くが使われた。白新線では特急「いなほ」として、また改造され快速「きらきらうえつ」として使われた。「いなほ」の定期運用は2014年7月まで、翌年に臨時列車の運行も終了している。快速「きらきらうえつ」は2019年の12月までと、ごく最近までその姿を見ることができた。

 

・115系〜
国鉄当時に生まれた近郊用直流電車で、JR東日本管内では近年まで群馬地区、中央本線なども走った。現在、越後線など新潟エリアに少数が残るのみとなっている。白新線からは2018年3月の春のダイヤ改正日に撤退している。

 

・EF81形式交直流電気機関車〜
かつては日本海縦貫線の主力機関車として活躍した。ローズピンクの色で親しまれたが2016年3月のダイヤ改正以降は定期運用が無くなり、富山機関区への配置も1両のみとなっていて、運用が消滅している。

↑少し前まで白新線を走った車両たち。すべて国鉄形で115系は越後線で、またEF81は九州で姿を見かけるのみとなっている

 

◆白新線を走る現役車両

次に現役の車両を見ていくことにしよう。

 

・E653系〜 
特急「いなほ」として運用される交流直流両用特急形電車。以前は常磐線の「フレッシュひたち」として走っていたが、2013(平成25)年に定期運用を終了。転用工事が行われた上で、同年から「いなほ」として走り始めた。2014年7月から「いなほ」の定期列車すべてがE653系となっている。

 

・E129系〜 
新潟地区専用の直流電車で、座席はセミクロスシート。ロングシートが車内半分を占めていて、混雑時にも対応しやすい座席配置となっている。

 

白新線のほぼすべての普通列車がこの形式で、2〜6両と時間に合わせ編成数も調整されている。白新線では新潟駅〜豊栄駅間の短区間を運転する列車が多いが、そのほか、北は羽越本線の村上駅まで、西は越後線の吉田駅、内野駅、また信越本線の新津駅などに乗り入れる列車も多く走る。

 

・キハ110系〜 
白新線では米坂線・米沢駅への直通列車、快速「べにばな」として運行。新潟発8時40分、戻りは新潟駅21時25分着で走る。

↑現在、白新線を走る旅客用車両3タイプと貨物用機関車。白新線を走り抜ける貨物列車はすべてEF510形式が牽引している

 

現在、走る車両はみなJR発足後の車両だけに鉄道ファンとしては物足りないかも知れない。とはいうものの希少車両も走っている。希少な車両ならば、やはり見たい、乗りたいという人も多いことだろう。白新線の希少車両といえば、まずはE653系特急「いなほ」の塗装変更車両だろう。U106編成が海の色をイメージした「瑠璃色」に、U107編成は日本海の海岸で自生するハマナスの花をイメージした「ハマナス色」に塗られている。ともに青空の下では栄えるカラーとあって、この車両の通過に合わせてカメラを構える人も目立つ。

↑E653系「いなほ」のハマナス色編成が名物撮影地、佐々木駅〜黒山駅間を走る。右上は瑠璃色編成

 

ほか希少車両を使った列車といえば、主に週末に走る臨時快速列車「海里(KAIRI)」。HB-E300系気動車が使った観光列車で2019年10月に登場した。下り列車は新潟駅を10時12分発と、白新線内では早い時間帯に通過する。ほとんどの運行日が酒田駅行きだが、秋田駅まで走る日もある。上りは酒田駅15時発、新潟駅18時31分着。上越新幹線に乗継ぎもしやすい時間帯に走っていることが、この列車の一つの魅力となっている。

↑ハイブリッド気動車を利用した観光列車「海里」。4両編成で車内では地元の食材を使った食事も楽しめる(食事は要予約)

 

【白新線の謎④】変貌する新潟駅。そして万代口は……

さて、前置きが長くなったが白新線の旅を進めよう。起点は新潟駅。いま新潟駅は大きく変ろうとしている。筆者はほぼ半年ごとに新潟駅を訪れているが、毎回、変化しているので面食らってしまう。

 

大きく代わっているのは、在来線ホームの高架化が進んでいること。上越新幹線のホームと同じ高さとなり、同一ホームで、特急「いなほ」との乗換えができるようになり便利になっている。ほか在来線のホームも徐々に高架化され、地上に残る線路もあとわずかとなっている。

 

一方で、新潟の玄関口ともなっていた、北側の万代口(ばんだいぐち)が大きく変っている。信濃川に架かる萬代橋側にあることにちなみ名前が付けられたこともあり、新潟を象徴する駅舎でもあった。10月9日からは移転して仮万代口改札となった。これから旧駅舎は取り壊されることになる。

 

予定では今後、鉄道線の高架化が終えた2023年には駅下に新潟駅改札口が集約される予定。また高架橋下には、バスステーションが作られ、万代口と南口の別々に発着していたバスも駅下からの発着となる。とともに万代口は万代広場、南口には南口広場が整備され、万代口という愛着のある名称は消えていく。長年、親しまれてきた名称だけに、ちょっと寂しい気持ちにもなる。

↑1958(昭和33)年に現在の場所に移転した新潟駅。万代口駅舎は2020年秋から撤去工事が始められている 2019年7月6日撮影

 

さて寄り道してしまったが、白新線の列車に乗りこもう。E129系電車の運用が大半の白新線だが、この日はキハ110系で運行される8時40分発の快速「べにばな」に乗車する。新潟地区ではキハ40系はすでに引退、磐越西線の気動車も電気式気動車のGV-E400系が多くなってきたこともあり、新潟駅では通常の気動車を見かけることが少なくなってきた。

 

そんなキハ110系の車内は、座席が5割程度うまるぐらい。ディーゼルエンジン音をBGMに高架駅を軽やかに出発した。

 

【白新線の謎⑤】上沼垂信号場から白新線の路線が始まるのだが

左下に残る地上線を見ながら高架線を走るキハ110系。しばらくすると地上へ、右へ大きくカーブして上越新幹線の高架橋(同路線は新潟新幹線車両センターへ向かう)をくぐると、いくつかの線路が合流、また分岐する。ここが上沼垂(かみぬったり)信号場だ。正確には、ここまでは信越本線と白新線は重複区間で、ここから分岐して“純粋な”白新線の線路へ入っていく。

 

この信号場、合流、分岐が忙しく続き、鉄道好きにはわくわくするようなポイントだ。新潟方面から乗車すると、まず右にカーブした路線に、左から築堤が近づいてくる。草が茂り、いかにも廃線跡のようだ。ここは旧信越本線の路線跡で、かつての旧新潟駅へは、この路線上を列車が走っていた。途中、旧沼垂駅の先に引込線跡も残るなど、廃線の跡を、今もかなりの場所で確認することができる。

 

その次に合流するのが信越貨物支線の線路。焼島駅(やけじまえき)という貨物駅まで向かう貨物専用線だ。現在は新潟貨物ターミナル経由で、東京の隅田川駅行の貨物列車が1日1便、焼島駅から出発している。ちなみにこの路線の牽引機は愛知機関区に配置されたDD200形式ディーゼル機関車となっている。

↑新潟方面(手前)から見た上沼垂信号場。列車はここから分岐をわたり白新線へ入る。左手の線路が信越貨物支線、左の高架は上越新幹線

 

列車は左へポイントをわたり、白新線へ入る。しばらく信越本線と並走するが、より左へカーブすると、いよいよ白新線独自の路線へ。その先、合流、分岐は続き、鉄道好きとしては気を抜けないところだ。進行方向右手、信越本線の線路が徐々に離れていくが、信越本線の線路との間に新潟車両センターがある。E653系の「いなほ」「しらゆき」、そしてE129系が多く停まっている。

 

さらに走ると、右手から白新線の線路に近づき、またぐ線路が1本ある。こちらは信越本線から新潟貨物ターミナル駅へ入る貨物列車用の線路となる。というように、目まぐるしく線路が合流、分岐、交差をくりかえして、次の東新潟駅へ向かう。

 

【白新線の謎⑥】東新潟駅ではやはり進行方向左手が気になります

さて白新線の最初の駅、東新潟駅。進行方向左手には側線が多く設けられ、貨物列車が停められている。さてここは?

 

こちらはJR貨物の新潟貨物ターミナル駅。日本海側では最大級の大きさを誇る貨物駅だ。車窓から見ても見渡す限り、貨物駅が広がる。貨物列車好きならば、東新潟駅の下りホームは、それこそ貨物列車の行き来が手に取るように見える、至福のポイントと言えそうだ。

 

さらに東新潟駅の先には、機関庫があり、日本海縦貫線の主力機関車EF510の赤や青の車両が休んでいる様子が望める。

↑白新線の線路の北側には新潟貨物ターミナル駅が広がる。線路沿いよりもむしろ眺めが良いのは東新潟駅の下りホームからだ

 

【白新線の謎⑦】大形駅の先、並行する築堤は果たして?

新潟貨物ターミナル駅の広がっていた線路が再び集まり、白新線に合流すると間もなく次の大形駅(おおがたえき)に到着する。この先は、また進行方向の左側に注目したい。走り出して間もなく線路と並行して、築堤が連なる。さてこの築堤は何だろう、もしかして?

 

いかにも前に線路が敷かれていたらしき築堤である。実際に下車して確認すると白新線公園という名前の公園となっており、築堤の上は遊歩道と整備されていた。スロープまで設けられ、整備状況が素晴らしい。ここは旧線跡を利用した公園で、阿賀野川河畔まで連なっている。

↑大形駅から新崎駅方面へ歩くと、路線に並行して旧線を利用した公園がある。同公園は阿賀野川河畔近くまで整備、小さな橋も残る

 

この旧線は、白新線が開通した当初に使われていた、阿賀野川橋りょうまで連なる線路跡で、現在の路線は、複線化するにあたって線路を南側にずらして敷かれたものだった。その旧線跡をきれいに公園化しているわけである。

 

ただし、この堤、阿賀野川に最も近づく築堤の先は、手すりに囲まれ、そこから下へ降りることができないという不思議な造りだった。この造りに疑問符が付いたものの、廃線となり草が茂り寂しい状態になるよりも、こうした再利用されていることは大歓迎したい。

 

そして阿賀野川の堤防に登ると、そこから広がる河畔が望める。河原は阿賀野川河川公園として整備され、市民の憩いの広場として活かされていた。

 

【白新線の謎⑧】黒山駅から延びる引込線は何線だろう?

大形駅へ戻り、白新線の旅を続ける。水量豊富な阿賀野川を渡り、次の新崎駅(にいざきえき)へ。新崎駅の先からは単線となり、次第に田園風景が広がるようになる。米どころ新潟ならではの光景だ。早通駅(はやどおりえき)、豊栄駅(とよさかえき)と、駅からかなり遠くまで住宅地が広がっている。豊栄駅までは、列車の本数も多いため、新潟市の中心部へ通うのにも便利ということもあり、住宅地化されているのだろう。

 

豊栄駅から先は朝夕を除き、列車本数が1時間に1本という閑散区間に入る。列車本数に合わせるかのように、住宅も減っていき、一方で水田が多く広がるようになる。そして次の黒山駅へ着く。この駅、構造がなかなか興味深い。

↑黒山駅の構内を望む。白新線の線路・ホームの横に側線があるが、この側線の先、藤寄駅まで新潟東港専用線が延びている

 

下りホームに沿って側線が何本か並行に敷かれている。側線があるものの、貨車は停まっていない。単に線路があるのみ。気になったので下車してみた。ぐるりと北側へまわってみると、白新線から離れ、1本の引込線が延びている。さてこの路線は?

 

黒山駅分岐新潟東港専用線という名称が付いた路線で、藤寄駅(ふじよせえき/聖籠町)まで2.5kmほど延びている。新潟東港の開港に合わせて造られた路線で、開業は1969(昭和44)年のこと。路線の開業とともに新潟臨海鉄道株式会社が創設された。しかし、大口の顧客だった新潟鐵工所が経営破綻したことなどの理由もあり、2002(平成14)年に新潟臨海鉄道は解散となってしまう。

 

その後は、路線の短縮を経て、現在は新潟県が所有する路線となり、JR貨物が運行を行う。列車は、新潟鐵工所の鉄道車両部門などを引き継いだ新潟トランシスが製造した新車、および、新潟東港から海外へ譲渡される車両の輸送などが主体となっている。

↑黒山駅近くの黒山踏切には踏切の両側に簡易柵が設けられていた。踏切の案内には「新潟東港鉄道」の文字が記されている(右上)

 

列車が運行するのは稀なため沿線の踏切には簡易柵が設けられ路線に進入できないようになっていた。線路は雑草に覆われる様子もなく、いつでも列車が走れるように保持されていた。ちなみに白新線を走る観光列車の「海里」が誕生した時にも、新潟トランシス製ということもあり、同線を走って白新線へ入線している。

 

列車運行が珍しく、しかもその運転日は明かされないこともあり、同線を走る列車を出会うことは、至難の業となっているようだ。

 

【白新線の謎⑨】黒山駅の裏手にある「黒山駅」の表示はさて?

黒山駅の周辺をぐるりと回っていて、ちょっと不思議な光景に出くわす。駅の裏手の道沿いから駅側を望むと、小さな建物に「黒山駅」の表示が。“あれ〜、ここから駅へ行けるのだろうか?”。

↑黒山駅の北側にある謎(?)の「黒山駅」の表示。裏手を通る道沿いの建物にある駅案内で、知らないと間違えて入っていきそうだ

 

この表示、JR貨物の黒山駅を表す表示で、JR東日本の黒山駅を示すものではない。したがって、この表示の場所から駅ホームへ入ることはできない。知らないと、間違えてしまいそうだが、もちろんこの地区に住む人は皆が知っていることでもあるし、また駅の北側に民家がないため問題にならないのだろう。都会だったらとても考えられない駅の表示だと感じた。

 

【白新線の謎⑩】撮り鉄の“聖地”佐々木駅を再訪する

黒山駅の次は佐々木駅だ。この付近になると駅間も広がり、豊栄駅〜黒山駅〜佐々木駅それぞれの駅間は3kmと距離が離れる。なお黒山駅までは新潟市内、次の駅の佐々木駅は新発田市内の駅となる。

 

この佐々木駅。鉄道ファンの中には同駅で降りた人も多いのではないだろうか。駅から徒歩で10分ほどの稲荷踏切。この踏切から太田川まで白新線の線路が大きくカーブ、水田よりもやや高い位置を走るため、全編成が車輪まで見える非常に“抜け”の良い場所となる。架線柱も片側だけに立ち撮影の邪魔にならない。さらにアウトカーブ、インカーブ、両方が撮影できるとあって、白新線ナンバーワンの人気撮影地となっている。

↑稲荷踏切から貨物列車を撮る。写真の851列車は2018年3月で廃止。現在、白新線を日中に走る貨物列車が少ないのがとても残念だ

 

筆者も2年ぶりに訪れてみた。以前は115系が撤退間際ということもあり、多くのファンが集まっていた。が、2年後は……。それでも私以外に2名の撮影者が訪れ構図作りに興じていた。この場所は、自分の好きなポイントで構図作りができることも人気の理由だろう。

 

このポイントは、気兼ねせずに撮影ができる。手前には刈り取りが終わった水田、周りも見渡す限り水田が広がる。水田越しに飯豊連峰・朝日連峰などの山々が遠望でき、気持ちの良い撮影時間となった。

 

【白新線の謎⑪】終点・新発田駅で駅近辺を歩いてみたら……

佐々木駅に戻り、終点の新発田駅を目指す。列車の時刻はちょうど1時間おきなので、予定作りもしやすい。佐々木駅の次の駅は西新発田駅。この駅は駅前にショッピングモールがあり、乗り降りする人が多い。黒山駅や佐々木駅と比べると、同じ路線の駅なのだろうかと思うほどだ。

 

西新発田駅と過ぎて、しばらく走ると、右から1本の線路が近づいてくる。この線路が羽越本線で、同線が近づいてくると、新発田駅がもうすぐであることが分かる。新潟駅から普通列車に乗車すると約40分で新発田駅に到着する。

 

新発田駅は西側の正面口しか無いが、久々下車してみると駅の形が大きく変っていることに気付いた。調べると2014(平成26)年の11月に現在の姿にリニューアル。城下町のイメージをした、なまこ壁の駅舎に改良工事をされていた。

↑なまこ壁の装いをほどこした現在の新発田駅。右上は2014年までの新発田駅の旧駅舎

 

さて、新発田駅では戻る列車まで時間があるので、駅の周辺を歩いて回った。駅の東口へ、地下通路を通って向かう。そして北側へ。

 

地図で事前に見てみると、駅の北から東へと、非常にきれいにカーブした道路があって、気になったのである。このカーブは何の跡なのだろう。

↑新発田駅近く、現在は公道として使われる赤谷線の廃線跡。この先で大きくカーブして赤谷へ向かう。なお今は赤谷行きバスが出ている(左下)

 

新発田駅からはかつて、赤谷線という支線が出ていた。路線距離は18.9kmと長めの支線だった。カーブした道はこの赤谷線の跡だった。

 

赤谷(新発田市赤谷)へはかつて鉄鉱石輸送用の専用線が敷かれていた。その路線を活かして1925(大正14)年に開業したのが赤谷線だった。白新線よりも、かなり前に開業していたわけだ。新発田駅から途中駅が5駅。終点の東赤谷駅の手前にはスイッチバックがあり、列車はスイッチバックをした上で、駅に入線していた。

 

駅の手前に33.3パーミルという急勾配があったためとされる。調べてみると東赤谷駅の蒸気機関車用の転車台は現在、大井川鐵道の千頭駅(せんずえき)に移設され役立てられていた。

 

赤谷線は1984(昭和59)年に全線が廃止されたが、以前に同線で使われていた施設が、その後に別の場所で活かされていたと聞いてうれしくなった。今となっては適わぬ夢ながら、一度、乗ってみたかったローカル線である。

↑新発田駅の東側にあるセメント工場には、今は使われていない引込線の線路がそのままの状態で残されていた

 

赤谷線の廃線跡を探したものの勝手が分からず駅の東側から遠回りをしてしまった。だが、思わぬ発見も。駅の東側に今や使われない線路が延びていた。錆びついた線路が残り、終端にはレトロな線路止めも。セメント工場への引込線跡だった。今もセメント会社は稼動していたが、羽越本線からは線路はすでに途切れていて、引込線は機能していなかった。

 

地方を訪ねると、こうした引込線の跡が残るところがある。新発田駅のように、県の中心、新潟駅から40分の距離の駅近くにも、こうした使われない線路が残されている。今回の白新線の旅では、光と陰の部分を見たようで、ちょっと複雑な気持ちにさせられた。

 

なお筆者が訪れた日に、新発田市内の観光施設で熊の出没騒ぎがあった。羽越本線の月岡駅から1kmほどのところ、白新線の黒山駅へも6kmほどの距離にあたる。この秋は、熊の出没が多く取りざた沙汰されている。民家が多い場所にも出てきている。甲信越や、東北、北陸地方などで沿線を歩く時には、熊鈴などの防御グッズを必ず携行して出かけることをお勧めしたい。