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2020/11/1 18:30

タヌキとラーメンの町を走る「東武佐野線」11の疑問

【佐野線の疑問④】館林駅前に複数のタヌキ像。さてなぜ?

さてここから佐野線の旅を始めよう。起点は館林駅で、佐野線は行き止まり式の1番線ホーム、もしくは3番線ホームから発車する。まずは電車の乗り込む前に館林駅前に降りたってみた。駅前広場には、なんとタヌキ! タヌキがいっぱいいた。

 

タヌキのいろいろな像が並んでいる。あれれ? 何かのおまじないか。案内を読むと、分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)の昔話(童話)は、その舞台が実は館林だったとのこと。

 

「へえーっ?」という思いがした。タヌキが化けた茶釜の話なのだが、市内の茂林寺(もりんじ)に実際に茶釜が残っているのだとか。ちなみに茂林寺は、館林駅の隣駅の茂林寺前駅が徒歩10分と近い。茂林寺は室町時代の西暦1426年開山と伝わる古刹で、名物となった分福茶釜の見学が可能だ。

↑館林の駅前ロータリーには信楽焼や石のタヌキ君たちがならぶ。今ふうのタヌキのキャラクター「ぽんちゃん」が気温表示の上に付けられる

 

タヌキが茶釜に化けてということが実際にあるわけが無いだろうから、きっと、なかなか賢いお寺の住職が子どもたちに話聞かせ、語り継いできたものなのだろう。お寺の名前は全国に知られ、町のPRにも結びついているわけで、現代流に言えばPR効果は抜群だったようである。

 

駅前のタヌキ像の隣には「不屈のG魂誕生の地」という碑が建っている。これは館林の分福球場で、読売巨人軍(当時は東京巨人軍)が秋のキャンプをした翌年(1936年)に初Vを遂げたことを記念したものだ。同球団が好きな方は、話のタネにいかがだろうか。

 

↑館林駅の1番線は行き止まり式の佐野線専用ホーム。この駅で佐野線の全列車(特急を除く)が折り返し運転となる

 

↑館林駅から600mほど伊勢崎線と並走、左手に車両基地が見える付近から分岐して佐野線へ入る

 

さてタヌキの逸話を確認したあと、この日は3番線から葛生行きに乗車する。佐野線の電車はすべて(特急1本を除く)が館林駅始発の葛生駅行で、朝夕は20〜30分間隔、9時から14時の日中は1時間間隔となる。乗車した電車は週末だったこともあり、2両編成の座席がほぼ埋まるぐらいと少なめ。部活動に行くのだろう、高校生の姿が目立った。

 

ローカル線らしくのんびり感がただよう印象、慌ただしさはなく出発した。しばらく伊勢崎線と並走、左手に車両基地(南栗橋車両管区館林出張所)に停まる車両を見ながら、右手に大きくカーブし、佐野線へ入る。

 

そして間もなく渡瀬駅(わたらせえき)へ到着する。駅の近くには農協の古い石造りの倉庫が残る。駅舎の前にはタヌキ像が鎮座し、まるで駅を守るかのようだ。

↑渡瀬駅前では大小の信楽焼のタヌキが駅を守る(?)。ちなみにこの駅が佐野線の群馬県内、最後の駅でもある

 

【佐野線の疑問⑤】渡瀬駅の先にある側線に停まる車両は?

渡瀬駅を発車すると進行方向、右手に気になる一角がある。側線に東武鉄道の古い車両が多く停められている。1月と2月に訪れた時には、加えて東京メトロ日比谷線の03系が、10月には、10000系の中間車が並んでいた。この一角はどのような役割をしているところなのだろうか。

 

ここは資材管理センター北館林解体所。つまり引退となった電車はここへ回送され、解体となる運命なわけだ。日比谷線の03系といえば2月末に引退となった車両。日比谷線の車庫は東武沿線にあるだけに、ここに送られてきた仲間がいたようである。03系は長野電鉄、北陸鉄道、熊本電気鉄道といった譲渡された車両があった一方で、廃車に至る車両もあらわれた。そうした電車の末路を考えるとちょっと寂しい気持ちにさせられる一角である。

↑渡瀬駅〜田島駅間にある北館林解体所。東武の10000系の中間車と日比谷線03系が留置されていた。2020年1月13日撮影

 

渡瀬駅〜田島駅間にある北館林解体所。実は東武鉄道の歴史では大きな転換点となったポイントでもある。それは後述したい。

 

さて右手に廃車となる一群を見送った後は、築堤を上り始める。築堤をあがりきり、渡良瀬川橋りょうを渡る。渡良瀬川は群馬県と栃木県の県境、足尾山塊を源流にした一級河川で、この下流で利根川に合流する。この渡良瀬川だが、かつて世の中を揺るがした公害事件が起きていた。

↑佐野線の渡良瀬川橋りょうを渡る8000系。栃木県側の路線のかたわらには「田中正造翁終焉の地」の記念碑が立つ

 

足尾鉱毒事件として後世に伝えられる事件である。足尾鉱毒事件は、明治期から昭和にかけて問題化した。足尾銅山から流され出た鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、その鉱毒により、アユが死に、また川の水を使っていた田畑も悪影響を受けた。

 

この問題を取り上げたのが、佐野市(当時は安蘇郡小中村)出身の国会議員の田中正造(たなかしょうぞう)だった。国会で鋭い質問をし続け、また触発されて、多くの農民が陳情に東京へ訪れた。政府も黙っていたわけでなく、足尾銅山を運営する古河鉱業へ、対応を早急に求めた。会社側も諸施設を造り対応したものの、当時の技術では、効果的な予防策をとることができなかった。

 

鉱毒の影響はその後も絶えることがなく続き、正造はとうとう、東京の日比谷で明治天皇に直訴を行ったのである。その後も正造は亡くなるまで精力的に活動を行い、支援を求めて歩き回った。そして渡良瀬川が見える地で客死した。1913(大正2)年、正造71歳だった。いまこの業績を讚えるように佐野線と県道7号線が並行するポイントに「田中正造翁終焉の地」の記念碑が立つ。生涯を掛けて鉱毒の怖さを伝え、正義を貫き通した氏の思いがこの地に今も眠っている。

 

【佐野線の疑問⑥】田島駅に残る側線は何だろう?

渡良瀬側橋りょうを渡ると左手に「田中正造翁終焉の地」の記念碑、右手には見渡す限り水田が広がる。かつて鉱毒の影響を受けた流域とは思えないほどの素晴らしい水田風景が広がる。とはいうものの、2月に訪れた当時と、10月ではちょっとした違いが。10月には路線の傍らにセイタカアワダチソウをはじめ雑草が生い茂っていた。草刈りをしないと、これほどまでに半年で雑草が伸びてしまうことがよく分かった。

↑渡良瀬川橋りょうを渡り、田島駅を目指す8000系。写真は2月15日撮影のもの。同地で撮影する時は雑草の具合を確認したほうが賢明

 

さて、到着した田島駅から栃木県佐野市の駅となる。駅前に人気ラーメン店があるなど佐野市内の駅らしい。民家が少なく郊外の駅といった印象だが、構内を見ると、側線とともに広々した敷地が広がる。

 

佐野線は全線が単線だが、田島駅だけでなくすべての途中駅が上り下り列車の行き違いができる構造になっている。さらに田島駅のように側線が残る駅も多い。残る側線の大半は本線からの分岐が切り離され、いまは使われていないが、なぜこのように側線が残っているのだろう。

 

これこそ、佐野線を貨物列車が多く走っていた証しである。そんな貨物列車が行き交った様子が想像できる場所が、他にも残っている。そのあたりは後述したい。

↑田島駅構内に残る側線。ポイントや架線が取り外されているものの、貨物列車が行き交った往時の姿が彷彿される

 

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