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2020/11/1 18:30

タヌキとラーメンの町を走る「東武佐野線」11の疑問

【佐野線の疑問⑦】佐野ラーメンはなぜ「青竹打ち」なのか?

さて田島駅の次は佐野市駅。車内にはJR両毛線との乗換駅ではないことを伝える案内がたびたび流されている。それだけ間違って降りてしまう人が多いのだろう。佐野市駅は佐野厄除大師の名前で知られる惣宗寺(そうしゅうじ)の最寄り駅である。

 

佐野市駅を発車した電車は佐野市の中心部を横切らず、東側に大きく迂回して両毛線の線路をまたぎ、ぐるりと左にカーブして佐野駅へ入線する。

 

ちなみに佐野鉄道の時代には、佐野駅の南側に佐野町駅が別にあり、ここから5km先の越名(こえな)まで路線が延びていた。当時は渡良瀬川の水運を利用して石灰石を運ぶためだったと見られる。1917(大正6)年に佐野町〜越名間の路線は廃止されている。おもしろいことに、越名には現在、人気の佐野プレミアムアウトレットがある。佐野駅からのバスが混みがちなだけに、もし路線が残っていたら、とちょっと残念に思った。

↑お店ごとにラーメンの味も異なる。その違い探しがまた楽しい。左は佐野駅近くの「優華」、右は葛生駅前「あづま本店」のラーメン

 

佐野の名物といえば佐野ラーメンである。筆者も佐野線を訪れるたびに、今度はどこのラーメン屋に立ち寄ろうかなと楽しみにしている。ネットで人気のお店となると、昼時は長蛇の列となるが、こだわらなければ、お店は数多くあるので、気軽に立ち寄れる。

 

さて佐野ラーメン、その多くの店に「青竹打ち」という案内がある。麺ものはそば・うどんにしても手打ちが多いが、ラーメンの手打ちとなると、生地にかなり弾力があるため大変な労力となる。そこで、長く太い青竹をテコのように使って、体重をかけて打ったという伝統の麺づくりが主流となっていたのである。青竹打ちは気泡が麺に多く残るぶん、独特な風味が楽しめるとされる。古くは製麺機を個人商店では導入できなかったために、この方法が導入されたという理由もあったようだ。

 

個人的にだが、筆者は佐野ラーメンもおいしいと思うものの、多くの店で用意している佐野の餃子が、なかなか美味だと感じる。よって佐野に立ち寄るといつもラーメンに餃子を注文して、食べ過ぎてしまうことになるのである。

↑JR両毛線と接続する佐野駅。両毛線の電車は1・2番線、佐野線のホームも1・2番線で、佐野駅には1・2番線が2つあることになる

 

佐野駅を発車した佐野線の電車は、すぐに右カーブして次の堀米駅(ほりごめえき)へ向かう。次の駅までほぼ佐野市の市街地で、さすがに人口11万人が住む都市ということを実感する。堀米駅を過ぎて、間もなく渡るのが秋山川。この川をわたると広々した水田地帯が広がる。そして吉水駅へ。

↑堀米駅〜吉水駅間に広がる水田。佐野市もこのあたりまで来ると、住宅が減っていきこうした水田風景が広がるようになる

 

吉水駅、次の田沼駅、多田駅と駅周辺には住宅街が広がる。このあたりを見ても佐野線の沿線人口が多いことが分かる。

 

多田駅を発車し、終点の葛生駅が近づくにつれて、工場が点在するようになる。砂や石灰を製造する工場が目立ち、やはり葛生は石灰石が産出する町ということが実感できる。右にカーブして秋山川を渡れば間もなく終点の葛生駅に到着する。はじめて訪れた人は、構内の大きさにびっくりすることだろう。

↑秋山川を渡れば終点の葛生駅はもうすぐだ。撮影で訪れたこの日はちょうど634型「スカイツリートレイン」が入線していた

 

【佐野線の疑問⑧】葛生駅の敷地が広い理由はもしかして?

葛生駅はホーム1つの小さな終着駅。ところが、ホームの前には側線が何本も設けられている。さらに現在はソーラーパネルがずらりと並ぶところまで、ずらりと入換え線が設けられていた。

↑右手の電車が停まるホームが現在の葛生駅。左手には今も多くの側線が残るが、現在ソーラーパネルがある所も入換え線だった

 

駅を撮影していたら、ちょうど地元の年輩に声をかけられた。「よく撮影しに来る人がいるんだよね」と開口一番。「ここは前、貨車が多く停まっていたんですよ」と懐かしげな様子。

 

「早朝から貨車の入換えが始まってね、それを合図に朝は起きたっけ。この駅からも多くの浅草行電車が出ていて、それで通ったものです。いまはすっかり寂れてしまったけれど」と話してくれたのだった。

 

往時の様子は、いまとても想像できないが、その名残が残されている。駅方面でなく、逆側に少し歩いてみると、そのことが分かる。

 

【佐野線の疑問⑨】葛生駅の先に残る廃線跡は?

セメント工場を背景に、引込線の跡が残されている一角がある。線路は外されているが架線柱が残っている。しかも架線柱の幅は複線以上の線路が敷かれていたことを想像させる。ということで昔の地図を探してみた。そこには多くの路線が記されていた。

↑葛生駅からのびる線路の跡をたどると、すでに線路は外されていたが、架線柱がそのままの姿で残されている

 

1977(昭和52)年、国土地理院発行の地図には、しっかりと引込線が記されていた。調べると引込線どころではなく貨物線だった。葛生駅の先には下記の路線があった。

会沢線
(あいさわせん)
葛生駅〜上白石駅〜第三会沢駅4.2km
1997(平成9)年廃止
大叶線
(おおがのせん)
上白石駅〜大叶駅1.6km
1986(昭和61)年廃止
日鉄鉱業貨物線
(日鉄鉱業羽鶴専用鉄道)
距離数・廃止年不明

 

これらの路線は大正から昭和にかけて作られ、蒸気機関車の牽引により貨車の輸送が行われていた。これらの路線で運び出されるのは石灰、セメント、ドロマイト。セメントは東京の業平橋(なりひらばし)まで運ばれていた。

 

さらに1966(昭和41)年には会沢線、大叶線が電化されていた。葛生駅は東武鉄道でも最大のターミナル駅だったとされる。こうした歴史をたどると1960年代、70年代までが最盛期だったことがわかる。電車の本数よりも貨物列車が多く走っていたと前述の地元の年輩が話をしていた。

 

佐野線ではほかに石油輸送が頻繁に行われていた。いまでもJR貨物が一部の路線でタンク車による石油輸送を行っているが、佐野線では堀米駅と北館林荷扱所(現在の資材管理センター北館林解体所)に石油タンク施設があり、両駅への貨物輸送が行われていた。1990年代がこの石油輸送の最盛期だったとされる。

↑1977(昭和52)年の葛生駅近辺の路線。エンジ色の路線は東武の貨物専用線、緑色が日鉄鉱業の貨物線。かなり奥まで路線が延びていた

 

こうした佐野線を舞台に行われた貨物輸送だったが、輸送量の減少とともに廃止が取りざたされるようになる。そして、石灰石やセメント輸送は1997(平成9)年までに終了した。久喜駅〜北館林荷扱所の石油輸送がその後も続けられたが、2003(平成15)年8月2日の運転をもって終了した。これが大手私鉄で最後の貨物列車輸送となった。

 

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