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2021/4/21 20:00

“不要不急”の名のもと戦禍に消えた「旧五日市鉄道」廃線区間を歩く

【五日市鉄道③】拝島駅近くに遊歩道「五鉄通り」を発見!

五日市鉄道の立川駅から拝島駅間が廃止されてすでに77年の年月が経つ。何か残されていないのだろうか? 航空写真と照らし合わせて見ると……。いかにも鉄道路線らしい、緩やかなカーブ道が拝島駅から南へ向けて延びている。ここが旧路線だったところだな、とすぐに分かった。

↑拝島駅の南口から歩き始める。同南口は昭島市、反対側の北口は昭島市と福生市にまたがる。ちなみに横田基地への引込線は北口駅前を通る

 

拝島駅は現在、多くの路線が接続するターミナル駅となっている。まずJR青梅線、JR五日市線、JR八高線の3路線が接続する。さらに西武鉄道の拝島線の終点駅となっている。ほかに、アメリカ空軍と航空自衛隊の基地、横田基地へ向かう貨物線も、駅構内から敷かれている。この基地へは、国内でここのみの在日米軍に向けた石油の鉄道貨物輸送が行われている。

 

そんな拝島駅へ降り立った。筆者は南口へ向い、戦前の古い地図を手に持ち歩き出した。

 

駅前の道を通りまず江戸街道へ出る。さらに歩道を渡り南に進んで自転車置き場がある遊歩道へ。通り名は何と「五鉄通り(ごてつどおり)」だった。五日市鉄道の名残を示すそのものズバリの通り名ではないか。五鉄とは五日市鉄道の愛称だったのだろう。

↑江戸街道から伸びる五鉄通り。入り口には、道路案内と「五日市鉄道の線路跡」という解説が設けられている

 

五鉄通りの入り口には「五日市鉄道の線路跡」という地元・昭島市により立てられた案内板があった。子どもたちにも読めるように総ルビ付きで、解説も分かりやすい。どのような車両が走っていたかなどの記述もあった。廃止された理由としては「近くを青梅線が走っている事情から立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました」とあった。

 

それとともに「太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました」という説明があった。不要不急線というような“小難しい”裏事情はさすがに書かれていなかった。

↑昭島市立林ノ上公園前の五鉄通り。多摩川へ向けて緩やかな下り坂が続く。途中に公園もあり散策に最適な道となっていた

 

分かりやすい解説もあり、廃止線の概要がつかめた。五鉄通りの入り口は遊歩道となっていたが、さらに道に沿って歩くと、車道となり車が通行する。多摩川方面へ歩くにつれて、徐々に下り道となった。昭島市立林ノ上公園が途中にあるが、このあたりの道の名前の表示はないが、地図には五鉄通りとある。五日市鉄道の廃線跡は「五鉄通り」という名前で残り、公道として活かされていた。通り名として鉄道名が残されていたのだった。

 

【五日市鉄道④】路線跡は途中、国道16号となっていた

五鉄通りをどんどん南へ歩いていく。途中から道はなだらかに左へカーブしていく。道幅は広く、途中から車道が遊歩道になり、広い道に付きあたる。さてこの道は?

 

広い道は国道16号だった。国道16号は横浜市高島町交差点を起終点に、首都圏をぐるりと環状に走る国道だ。五鉄通りと国道16号が交わる付近に南拝島駅があったはずだが、その跡は見あたらなかった。たぶん道路の拡張もあり、消えたのだろう。

 

五日市鉄道の路線跡、現在の国道16号は、同地点からしばらく直線路が続く。その先の堂方上交差点で、国道16号は多摩川方面へ右折する。一方、広い道はこの先も続く。堂方上交差点からは都道29号線「新奥多摩街道」となる。

↑国道16号の歩道部分は写真のように非常に広い。旧五日市鉄道の元路線がこのあたりに敷かれていたようだ

 

しばらく新奥多摩街道を歩く。古い地図を見ると、現在の市役所前交差点あたりに武蔵田中駅があったはずだが。

 

【五日市鉄道⑤】旧駅跡には鉄道用の車止めや手動転轍機が

市役所前交差点の先の交差点。少し道が広くなっていて歩道上に突然、鉄道の「車止め」と、ポイント切替え用の「手動転轍機(てんてつき)」が置かれていた。武蔵田中駅であることを示す遺構なのだろう。説明書きなどがないのがちょっと残念だったが、モニュメントの周囲には花が植えられ、きれいに整備されていた。この駅近くから多摩川方面へ引込線が設けられていたが、その引込線跡も公道となっていた。

↑新奥多摩街道沿いにある旧武蔵田中駅の遺構(左)。車止めと転轍機がモニュメントとして設置され駅跡であることが分かる

 

↑旧武蔵田中駅から貨物線が多摩川方面へ延びていた。この左の道が旧路線跡と思われる

 

車止めがあったモニュメントの先に、新奥多摩街道から分かれ東へ延びる道がある。まっすぐ延びる道は通り名も、五鉄通りだった。つまり、拝島駅から、一部は国道16号と新奥多摩街道となっていたものの、ずっと五日市鉄道の路線跡は五鉄通りとなり生き続けていた。

 

【五日市鉄道⑥】旧大神駅にはレール、ホームなどモニュメントが

五鉄通りに入りまっすぐの道を約500m歩く。すると右手に公園があり、信号や踏切などと共に、短いホームと線路などのモニュメントが設けられていた。こちらが五日市鉄道大神駅跡だ。五日市鉄道の廃線区間で、最も整備されたモニュメントとなっている。短いホーム跡には大神駅の駅名案内も立つ。

 

ホームの寄贈者は東日本旅客鉄道と奥多摩工業の名前があった。ちなみに奥多摩工業とは、太平洋戦争前には奥多摩電気鉄道として設立された会社である。青梅線の御嶽駅〜氷川駅(現・奥多摩駅)の鉄道敷設免許を届け出た。青梅線の国有化後の1944(昭和19)年7月に同区間は開業している。奥多摩電気鉄道の手で路線開業できなかったものの、五日市鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道と合併した会社でもあり、この路線跡にも縁がある会社でもあった。

 

さらに昭島市が立てた案内板もあった。やや傷んでいたのが残念だったが、拝島駅近くの五鉄通り入口に立つ案内板に、近い解説があった。

↑旧大神駅のモニュメント。昭島駅や奥多摩駅で使われた信号や踏切施設などと共に、貨車の台車が線路上に設置される

 

旧大神駅前の五鉄通りはここで昭和通りと交差する。この大神駅のモニュメントの横にも、通りの謂われを解説する案内があった。そこには現在の昭島駅の北側に1937(昭和12)年に昭和飛行機が進出し、飛行機生産が始まり、工場や駅へ向かう道は昭和通りとされたとある。太平洋戦争前に、東京都下で戦時体制へ突入する動きが盛んだったことが分かった。

↑旧大神駅の先で八高線と交差していた。現在は、不釣り合いなほど立派な地下をくぐる構造の遊歩道となっている

 

今回の散策は、この旧大神駅前までで終了とした。帰りは昭和通りを昭島駅へ向かった。この昭島駅は旧大神駅にあった解説によると、1938(昭和13)年の開業時には「昭和前」という駅名だった。戦争の影は、都下にも不気味に迫っていたことが分かる。

 

五日市鉄道が走っていた頃の古い地図を見ると、廃止された区間には8つの駅があった。集落があったところに作った駅だそうだ。あとは一面の桑畑や田畑だった。もし路線が残っていたら、沿線に住む多くの人たちの通勤・通学に役立ったことだろう。たらればではあるものの、沿線風景も大きく変わったに違いない。路線が生まれてわずか14年で、戦禍に消えた五日市鉄道の廃線区間を歩き、やはり戦争は罪なものだと深く感じたのだった。

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