不要不急線を歩く01 〜〜 旧五日市鉄道立川駅〜拝島駅間 〜〜
「不要不急」という言葉を聞くと「不要不急の外出を控えて」と、条件反射のように決まり文句が出てくるご時世。だが、今から80年近く前に生きた人々にとって不要不急といえば、「不要不急線」という言葉が頭に浮かんだのではないだろうか。
戦時下に廃止された鉄道路線には、この不要不急線が多い。なぜ廃止されなければならなかったのか、その後にどうなっているのか、明らかにしていきたい。今回は東京都下で気になった不要不急線を歩いてみた。
【不要不急線とは】鉄の供出のため強制的に廃止された鉄道路線
戦争というのは罪なもので、平常時ならばありえない政策が何でもまかり通る状態となる。不要不急線も、平和な時代ならばあり得ない“理不尽な政策”の犠牲であった。何しろ、多くの人が利用してきた鉄道路線が突然、廃止および休業させられてしまったのだから。
不要不急線という問答無用の路線廃止が行われた背景を簡単に触れておこう。昭和初期、日本は満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争へと泥沼の大戦へと突入していく。戦争遂行のためには、鉄などの戦略物資が大量に必要となる。もともと資源の乏しい日本。どこからか捻出しなければならない。まずは国民に、ありとあらゆる鉄が含まれる品物を供出させた。
鉄道路線には多くの鉄資源が使われている。そこで、重要度が低いとされた路線を廃止もしくは休止させて、レールなどを軍事用に転用、もしくは重要度が高い幹線用に転用するべく、政府から命令が出された。命令の内容は「勅令(改正陸運統制令および金属類回収令)」であり、拒否はできなかった。廃止により運行スタッフの職が奪われようと、政府は我関せずだったわけだ。
そして全国の国鉄(当時は鉄道省)と私鉄の路線が1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて廃止されていった。その数は90路線近くにのぼる。多数の鉄路が国を守るという美名のもとに消えていった。一部は戦後に復活した路線もあったが、そのまま消えていった路線も多かった。今回はそんな路線の一つ、五日市鉄道(現在のJR五日市線)の立川駅〜拝島駅間に注目した。
【五日市鉄道①】昭和初期発行の五日市鉄道・沿線案内を見ると
筆者の手元に昭和初期に発行された五日市鉄道の秋川渓谷の案内がある。五日市鉄道とは、現在のJR五日市線を運行していた旧鉄道会社名だ。この鳥瞰図を使った沿線案内をよく見ると、立川駅から拝島駅の間に、南中神駅と南拝島駅という現在は存在しない駅名が記されている。さらに裏面の運賃表を見ると、立川駅〜拝島駅間には多くの駅が表示されている。
一方、この沿線案内には、青梅線や八高線が拝島駅を通っていない。なぜなのだろう? 不思議になって調べ、図としたのが下記のマップだ。
現在の青梅線の南側に、旧五日市鉄道の立川駅〜拝島駅間があった。青梅線の立川駅〜拝島駅間がほぼ直線区間なのに対して、旧五日市鉄道の路線は多摩川側に大きくそれている。途中から多摩川の河原に向けて砂利採取用の貨物支線が敷かれていた。
なぜ、この路線が不要不急とされたのか。また、なぜ国鉄路線に組み込まれたのか、その歴史を含めてひも解いていこう。
【五日市鉄道②】今も青梅支線として活かされる立川駅側の一部
まずは五日市鉄道の概要を見ておきたい。
路線 | 五日市鉄道(現・JR五日市線)/立川駅〜武蔵岩井駅(現在の五日市線の終点は武蔵五日市駅) |
開業 | 1925(大正14)年4月21日、五日市鉄道により拝島仮停留場〜五日市駅間10.62kmが開業、1930(昭和5)年7月13日、立川駅〜拝島駅間8.1kmが開業 |
合併と国有化 | 1940(昭和15)年10月、南武鉄道(現・JR南武線)と合併。1943(昭和18)年9月、青梅電気鉄道、奥多摩電気鉄道(ともに現・JR青梅線となる)と合併契約を結ぶ。1944(昭和19)年4月1日、国有化され五日市線に。 |
運転休止 | 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年10月11日、立川駅〜拝島駅間8.1kmと貨物支線3.0kmが休止、そのまま廃止に。 |
五日市鉄道は五日市地区(現在のあきる野市)で採掘される石灰石の輸送用に計画された。鉄道敷設には浅野セメントが大きく関わっている。当時、すでに青梅鉄道により、奥多摩地区の石灰石の輸送が活発になりつつあった。奥多摩で採掘された石灰石は、セメント工場や輸送設備があった川崎へ向け、南武鉄道経由で運ばれた。中継駅だった立川駅の構内は貨物列車により飽和状態となっており、五日市鉄道の開通により、さらに過密状態となった。
そこで五日市鉄道の拝島駅〜立川駅間が計画され、路線が敷設された(実際の同線の建設には南武鉄道が大きく関わっている)。この路線により、五日市鉄道からは、鉄道省の路線(省線)を通ることなく、南武鉄道と結ばれることになった。当時の青梅電気鉄道の西立川駅からも、この路線への線路が敷かれ、五日市鉄道・青梅電気鉄道←→南武鉄道という石灰石流通ルートができあがった。省線の線路を使うことなく、行き来できるようになったことが3社にとっては大きかった。この“短絡線”の開業により鉄道省へ通過料を支払う必要がなくなったのである。
その後、歴史は目まぐるしく動く。特に太平洋戦争中は動きが活発になる。セメントも重要な軍事物資であり、戦争遂行のために欠かせなかった。戦時下に五日市鉄道など3社が合併をし、さらに1944(昭和19)年には国有化された。元々、省線の線路を使わず走ることが大前提として誕生した五日市鉄道の立川駅〜拝島駅間であり、国有化されたからには必要のない路線とされたのだった。国有化からわずかに半年あまり。不要不急線となり休止、そのまま廃止に追いやられた。
戦後、旧五日市鉄道などの路線が民間へ戻されることはなかった。五日市鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道の経営には浅野財閥が資本参加していた。戦争への道を突き進んだのは財閥の影響が大きいと見たGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が行った、財閥解体の影響だったとされる。
後世の人からは、まるで図ったように国有化され、立川駅〜拝島駅間は廃止されていったように見える。ただし、立川駅から西立川駅間の一部区間は、青梅短絡線として今も残る。中央線から青梅線へ直通運転される下り列車にとって欠かせない路線であり、青梅線〜南武線間を走る貨物列車(在日米軍基地・横田基地への石油輸送がある)が通過する。今も五日市鉄道の開業に関わった青梅短絡線を使って、青梅線と南武線を行き来しているわけだ。五日市鉄道が残した路線跡は、今も一部のみだが生き続けている。
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【五日市鉄道③】拝島駅近くに遊歩道「五鉄通り」を発見!
五日市鉄道の立川駅から拝島駅間が廃止されてすでに77年の年月が経つ。何か残されていないのだろうか? 航空写真と照らし合わせて見ると……。いかにも鉄道路線らしい、緩やかなカーブ道が拝島駅から南へ向けて延びている。ここが旧路線だったところだな、とすぐに分かった。
拝島駅は現在、多くの路線が接続するターミナル駅となっている。まずJR青梅線、JR五日市線、JR八高線の3路線が接続する。さらに西武鉄道の拝島線の終点駅となっている。ほかに、アメリカ空軍と航空自衛隊の基地、横田基地へ向かう貨物線も、駅構内から敷かれている。この基地へは、国内でここのみの在日米軍に向けた石油の鉄道貨物輸送が行われている。
そんな拝島駅へ降り立った。筆者は南口へ向い、戦前の古い地図を手に持ち歩き出した。
駅前の道を通りまず江戸街道へ出る。さらに歩道を渡り南に進んで自転車置き場がある遊歩道へ。通り名は何と「五鉄通り(ごてつどおり)」だった。五日市鉄道の名残を示すそのものズバリの通り名ではないか。五鉄とは五日市鉄道の愛称だったのだろう。
五鉄通りの入り口には「五日市鉄道の線路跡」という地元・昭島市により立てられた案内板があった。子どもたちにも読めるように総ルビ付きで、解説も分かりやすい。どのような車両が走っていたかなどの記述もあった。廃止された理由としては「近くを青梅線が走っている事情から立川・拝島駅間は昭和19年10月11日付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました」とあった。
それとともに「太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました」という説明があった。不要不急線というような“小難しい”裏事情はさすがに書かれていなかった。
分かりやすい解説もあり、廃止線の概要がつかめた。五鉄通りの入り口は遊歩道となっていたが、さらに道に沿って歩くと、車道となり車が通行する。多摩川方面へ歩くにつれて、徐々に下り道となった。昭島市立林ノ上公園が途中にあるが、このあたりの道の名前の表示はないが、地図には五鉄通りとある。五日市鉄道の廃線跡は「五鉄通り」という名前で残り、公道として活かされていた。通り名として鉄道名が残されていたのだった。
【五日市鉄道④】路線跡は途中、国道16号となっていた
五鉄通りをどんどん南へ歩いていく。途中から道はなだらかに左へカーブしていく。道幅は広く、途中から車道が遊歩道になり、広い道に付きあたる。さてこの道は?
広い道は国道16号だった。国道16号は横浜市高島町交差点を起終点に、首都圏をぐるりと環状に走る国道だ。五鉄通りと国道16号が交わる付近に南拝島駅があったはずだが、その跡は見あたらなかった。たぶん道路の拡張もあり、消えたのだろう。
五日市鉄道の路線跡、現在の国道16号は、同地点からしばらく直線路が続く。その先の堂方上交差点で、国道16号は多摩川方面へ右折する。一方、広い道はこの先も続く。堂方上交差点からは都道29号線「新奥多摩街道」となる。
しばらく新奥多摩街道を歩く。古い地図を見ると、現在の市役所前交差点あたりに武蔵田中駅があったはずだが。
【五日市鉄道⑤】旧駅跡には鉄道用の車止めや手動転轍機が
市役所前交差点の先の交差点。少し道が広くなっていて歩道上に突然、鉄道の「車止め」と、ポイント切替え用の「手動転轍機(てんてつき)」が置かれていた。武蔵田中駅であることを示す遺構なのだろう。説明書きなどがないのがちょっと残念だったが、モニュメントの周囲には花が植えられ、きれいに整備されていた。この駅近くから多摩川方面へ引込線が設けられていたが、その引込線跡も公道となっていた。
車止めがあったモニュメントの先に、新奥多摩街道から分かれ東へ延びる道がある。まっすぐ延びる道は通り名も、五鉄通りだった。つまり、拝島駅から、一部は国道16号と新奥多摩街道となっていたものの、ずっと五日市鉄道の路線跡は五鉄通りとなり生き続けていた。
【五日市鉄道⑥】旧大神駅にはレール、ホームなどモニュメントが
五鉄通りに入りまっすぐの道を約500m歩く。すると右手に公園があり、信号や踏切などと共に、短いホームと線路などのモニュメントが設けられていた。こちらが五日市鉄道大神駅跡だ。五日市鉄道の廃線区間で、最も整備されたモニュメントとなっている。短いホーム跡には大神駅の駅名案内も立つ。
ホームの寄贈者は東日本旅客鉄道と奥多摩工業の名前があった。ちなみに奥多摩工業とは、太平洋戦争前には奥多摩電気鉄道として設立された会社である。青梅線の御嶽駅〜氷川駅(現・奥多摩駅)の鉄道敷設免許を届け出た。青梅線の国有化後の1944(昭和19)年7月に同区間は開業している。奥多摩電気鉄道の手で路線開業できなかったものの、五日市鉄道、南武鉄道、青梅電気鉄道と合併した会社でもあり、この路線跡にも縁がある会社でもあった。
さらに昭島市が立てた案内板もあった。やや傷んでいたのが残念だったが、拝島駅近くの五鉄通り入口に立つ案内板に、近い解説があった。
旧大神駅前の五鉄通りはここで昭和通りと交差する。この大神駅のモニュメントの横にも、通りの謂われを解説する案内があった。そこには現在の昭島駅の北側に1937(昭和12)年に昭和飛行機が進出し、飛行機生産が始まり、工場や駅へ向かう道は昭和通りとされたとある。太平洋戦争前に、東京都下で戦時体制へ突入する動きが盛んだったことが分かった。
今回の散策は、この旧大神駅前までで終了とした。帰りは昭和通りを昭島駅へ向かった。この昭島駅は旧大神駅にあった解説によると、1938(昭和13)年の開業時には「昭和前」という駅名だった。戦争の影は、都下にも不気味に迫っていたことが分かる。
五日市鉄道が走っていた頃の古い地図を見ると、廃止された区間には8つの駅があった。集落があったところに作った駅だそうだ。あとは一面の桑畑や田畑だった。もし路線が残っていたら、沿線に住む多くの人たちの通勤・通学に役立ったことだろう。たらればではあるものの、沿線風景も大きく変わったに違いない。路線が生まれてわずか14年で、戦禍に消えた五日市鉄道の廃線区間を歩き、やはり戦争は罪なものだと深く感じたのだった。