【成宗電気軌道④】トンネルを通り抜けた千葉交通バス。実は?
電車道に残されるレンガ造りのトンネルは2本ある。トンネルとトンネルの間には、成田市によって設けられた案内板が立つ。案内によると、この2本のトンネルは成宗電車「第一トンネル」「第二トンネル」と呼ばれる。完成は1910(明治43)年で、「煉瓦造(イギリス積)アーチ環6枚巻」の形式・構造とされる。成田山新勝寺側の第一トンネルは12.2m、京成成田駅側の第二トンネルは40.8mの長さがある。
電車は複線を走っていたとされ、トンネル幅は広く、現在も片側一車線の道幅でゆったりしている。
案内板には「電車は地域に欠かせない乗り物となりましたが、戦争の激化により、遊覧的色彩が強いこと等を利用として、政府の命令により営業廃止となりました。これにより昭和19年に業務を停止し、35年に渡って成田の街を走り続けた成宗電車は幕を閉じました」とあった。非常に分かりやすい解説だった。
欠かせない乗り物だったものが、政府の命令により、問答無用で廃止となっていったわけだ。今だったら大反対運動が起こっていたことだろう。
さて、第一トンネルの写真を撮っていると路線バスが走ってきた。千葉交通の路線バスだ。成宗電車は廃止時に成田鉄道を名乗っていた。成田鉄道という会社は、その後、路線の廃止により鉄道事業から撤退。鉄道からは手を引いたものの、会社は交通事業者として存続し、戦後すぐに成田バスと改称して、バス会社として存続していた。1956(昭和31)年には千葉交通と会社名を改称している。
千葉交通では、成宗電気軌道として起業した年を会社の創立年としており、2008(平成20)年には創立100周年を迎えていた。記念事業として、成田市内でクラシックなボンネットバスを運行させた。電車はバスに変わったものの、同路線を同じ会社の乗り物が走っていたことが分かった。交通事業者としての意地が伝わるようで、うれしく感じた。
【成宗電気軌道⑤】“電車道”を歩いて成田山新勝寺の前へ
第一トンネルを抜けると下り道となる。緩やかなカーブ道を下りていくと、沿道に「電車道」の看板もあった。今も成宗電車の名残は「電車道」として生きていた。そして、電車道越しに成田山新勝寺が見えてきた。
旧不動尊の停留場跡は道路幅も広く、このあたりに停留場があったことが十分に予測できた。そして道は門前町に入った途端に細くなり、古い町並みとなる。土産物店や、うなぎなどの名物を商う飲食店が軒を連ねる。
帰りは電車道を通らず、新勝寺門前町が連なる「表参道」をぶらりと散歩しながら、京成成田駅へ戻った。
【成宗電気軌道⑥】成田駅の南は線路跡らしい箇所が消滅していた
後半では成宗電車が走っていた宗吾を目指す。古い地図を見ると、京成成田駅からは、ほぼ現在の京成本線に沿って走っていたと思われる。JR成田線の下をくぐり、線路は宗吾を目指していた。
京成本線と平行に走っていた成宗電車は、現在の日赤成田病院前交差点から国道464号上を走っていた。この国道464号は今も「宗吾街道」と呼ばれている。宗吾へ向けて走っていた通りということが良く分かる。
成宗電車が走っていたことを示す証は、この宗吾街道上にはなかった。宗吾街道の南側に公津の杜と呼ばれる地区があり、京成本線では公津の杜駅が最寄り駅となる。このあたりは、京成電鉄により開発されたニュータウンが広がる。
宗吾街道は、公津の杜公園と呼ばれる緑地帯を縁取るようにカーブして宗吾へ向かっていた。
【成宗電気軌道⑦】宗吾霊堂があり栄えた宗吾の町なのだが
宗吾街道を公津の杜公園から先へ歩く。ややアップダウンがあるものの、電車が走るのには問題がない勾配に思われる。途中、停留場があった大袋を過ぎ、宗吾地区へさらに向かった。
住宅が立ち並ぶ地区が宗吾だ。国道464号は直角に曲がる。この角に東勝寺(とうしょうじ)がある。東勝寺は真言宗豊山派のお寺で、開基は坂上田村麻呂とされ、創建は8世紀とある。東勝寺という名前よりも宗吾霊堂という名前の方が良く知られている。
宗吾霊堂には義民・佐倉宗吾の霊が祀られている。宗吾は江戸時代の初期、下総佐倉藩を治めた堀田氏の圧政に苦しむ農民のために、将軍へ直訴を行い、そのかどで処刑された人物だ。この宗吾の義挙は人々の支持を得て、その後に歌舞伎、浪花節などの主人公として謳われ名前が広まった。そして、宗吾霊堂として祀られたのだった。
調べてみると、民衆に人気のあった宗吾を祀ったとあり、江戸時代から昭和にかけてはお参りする人も多かったようだ。成田と宗吾を結ぶ成宗電車も開業し、参詣客でさぞや賑わったことだろう。
宗吾の町は、この宗吾霊堂があることで栄えた。成宗電車の停留場があったころは、きっと賑やかだったのであろう。だが、今は車で参拝に訪れる人が散見されたものの、やや寂しさが感じられた。