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2021/4/29 11:30

「成宗電気軌道」の廃線跡を歩くと意外な発見の連続だった

【成宗電気軌道⑧】地元のお年寄りに声をかけてみるとある発見が

さて、宗吾の停留場はどこにあったのだろう。古い地図を持ちつつ、町を右往左往する。ところが、どこにも停留場跡らしきものが見当たらなかった。

 

なんとか跡が見つからないだろうかと歩いてみたが、何もない。あきらめて帰ろうとしたら、ちょうど高齢の女性が杖をつきゆっくり歩いている。家の前には母親を迎える息子さんらしき姿が。

 

門前の歩道が細いこともあり、女性に道を譲りつつ待つ合間に息子さんに話しかけてみた。

↑宗吾霊堂の近くの細い横道。このあたりに停留場があったと思われる。前を行く高齢の女性と話す機会があって……

 

「宗吾の昔の信号場はどこにあったのでしょう」

「昔の駅ですよね。今はすっかり民家になってしまって、ほとんど残っていないんです」

 

そこへ母親が到着。ちょうど筆者が持参していた古い絵葉書のコピーを手渡した。「あら懐かしい。この電車ね、駅でなくとも、手を上げたら乗せてくれたのよね」と昔のことを思い出しながら話をしてくれた。

 

「宗吾でこの電車が走っていたころを知る人は、たぶんうちの母のみだと思います」と息子さん。「この電車ね、その後に函館市電を走っていると聞いて、若いころに町の人たちと乗りにいったわ」と母親。これは初耳、良い話を聞かせてもらった。

↑函館市内を走る「函館ハイカラ號」。この電車は元成宗電車を走っていた車両でもあった

 

調べてみると、成宗電車の電車は多くが函館市電(現・函館市交通局が運行/当時は函館水電)へ。デハ1形と呼ばれる電車5両が、函館市電に譲渡されていた(車両数が多かったため余剰の車両を譲っていた)。譲渡されたのは1918(大正7)年のこと。その1両は今も生き延びていた。「函館ハイカラ號」として1993(平成5)年に復元されて、今も春から秋まで(現在は新型コロナウイルスの影響により、運転休止の場合あり)は、函館の街を走る復元チンチン電車として走っていた。筆者も函館の街で何度か見かけたが、かつて成宗電車を走った電車だったとは、うかつにも知らなかった。

 

女性はこうも話していた。「戦争の時に電車がなくなったでしょう。働いていた人たちは大変。働き場所がなくなったので、宗吾霊堂で働かせてもらったりしたんですよ。でもね、鉄が足りないといって廃止されたんだけれど、レールはその後も、しばらくはそのままだったわね」。

 

不要不急線として廃止されたものの、レールの供出までは、手が回らなかったということなのだろう。矛盾した話である。

 

さらに「昔はこのあたり、多くの蕎麦屋さんがあって、とっても賑わっていたの」だそうだ。結局のところ、電車の廃止は地域経済への打撃も大きかった。成宗電車がもし走り続けていたら、宗吾霊堂の名前は、今も知られた存在だったのであろう。電車がなくなり、すっかり忘れられてしまったようである。

↑京成電鉄の宗吾参道駅が宗吾霊堂の最寄り駅となる。宗吾霊堂へは徒歩で約12分。途中には立派な門も立っていた(左上)

 

いま、宗吾霊堂の最寄り駅は京成電鉄の宗吾参道駅となる。徒歩で12分ほどだ。とはいうものの、上り坂が途中にあり、高齢者にはつらい行程かと思われる。さらに宗吾霊堂は成田市内だが、宗吾参道駅は酒々井町(しすいまち)の町内の駅となる。自治体が異なると、やはり連携したPR活動もできないのかもしれない。よってPR効果も期待できない。

 

宗吾は時代から取り残された印象があり、寂しく感じられた。鉄道が消えるということは、こういうことなのだろう。

 

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