不要不急線を歩く02 〜〜成宗電気軌道(千葉県)〜〜
「不要不急」といえば、今ならば「外出を控えて」となる。しかし、太平洋戦争の戦時下では、不要不急の名のもとに、多くの「鉄道路線が休止、廃止」となった。不足する鉄資源を得るため、これらの路線のレールが外されていったのだ。
今回は、その「不要不急線」として廃止された成宗電気軌道(せいそうでんききどう)の廃線跡を紹介したい。訪れると予想外に多くの発見があった。
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【成宗電気軌道①】廃線歩きは一枚の絵葉書から始まった
筆者の手元に一枚の古い絵葉書がある。そこには「成宗電車宗吾停留場」と印刷されている。さて、成宗電車とは? ほとんど馴染みのない名前の電車だ。どこを走っていたのか調べてみると、現在の千葉県成田市内を走っていた電車であることが分かった。
さらに、戦時下の1944(昭和19)年に不要不急線として廃止された路線だった。
成宗電気軌道とは、成田と宗吾(そうご)という地区を結ぶ路面電車路線だったとされる。筆者は観光ガイドブックを制作する仕事もしているため、各地のことを少しは知っているつもりだった。ところが、宗吾という地名はお目にかかった記憶がない。宗吾には、果たして電車が結ぶほどの観光名所があったのだろうかと、疑問が膨らんでいった。とにかく歩いてみるべく現地を訪れた。
【成宗電気軌道②】成田と宗吾を結んでいた成宗電気軌道
まずは成宗電気軌道の概要を見ておきたい。
会社創立 | 1908(明治41)年11月、成宗電気軌道株式会社が創立 |
路線 | 成田山門前(後の不動尊)〜宗吾間5.3km |
路線の開業 | 1910(明治43)年12月11日、成田駅前(後の本社前)〜成田山門前(後の不動尊)間が開業。1911(明治44)年1月20日、成田駅前〜宗吾間が開業 |
廃止 | 不要不急線の指定をうけ1944(昭和19)年12月11日に廃止 |
路線の開業後、1916(大正5)年に会社名は成田電気軌道と改称された。1925(大正14)年には京成電気軌道(現・京成電鉄)が買収、傘下企業となっている。そして、1927(昭和2)年に成田鉄道と改称した。会社名の変転はあったものの、地元の人たちには「成宗電車」(以下、この名前で同路線を呼びたい)の名前で親しまれていた。
買収当時の京成電気軌道としては、線路を結び、成田山新勝寺の目の前まで電車を走らせる計画があった。成宗電車の軌間幅は1372mm、京成電鉄の軌間幅は今でこそ1435mmだが、当時は成宗電車と同じ軌間幅だった。つまり乗り入れが可能だったのである。
ちなみに、1372mmは馬車鉄道が起源だとされる。馬車鉄道を起源とする軌道路線が多かったこともあり、当時は1372mmという軌道幅は珍しくなかった。現在はこの線路幅を使っている鉄道路線はそう多くない。目立つところでは、軌道鉄道を起源とする京王電鉄京王線や都電荒川線、東急世田谷線が今も1372mmの軌間幅を利用している。
少し話がそれたが、当時の京成電気軌道が成宗電車への乗り入れを果たせなかった理由は、地元、新勝寺門前町から反対の声が強くあがったためだとされている。乗り入れが出来ていたならば、成宗電車の歴史も変わったのかも知れない。
さらに太平洋戦争に突入すると、戦時下に参詣のための路線はふさわしくないとされ、また京成電気軌道がほぼ平行して走ることから、不要不急線に指定。そして1944(昭和19)年に路線廃止となったのだった。戦時下とはいえ、参詣すら問題視されるほど余裕がない時代だったことが窺える。
ちなみに、成田鉄道では多古線(たこせん)という、成田駅〜八日市場駅間(30.2km)の路線も所有していた。この多古線も1944(昭和19)年1月11日に運転休止。戦後の1946(昭和21)年10月9日に廃止となっている。この多古線に関しては機会があれば紹介したい。
【成宗電気軌道③】京成成田駅を出発点に歩き出す。すると……
成宗電車の廃線歩きは京成成田駅から始めることにした。京成成田駅の参道口に降り立つ。駅の正面には、屋根付のバス乗り場がある。ちょうどこのあたりに成田駅前の停留場があったのだろう。この付近からは成田鉄道多古線の列車も出発していたようだ。
さて、古い地図を参考に、線路が敷かれていた北側へ向かう。現在の京成成田駅から、成田空港方面への高架線の左手にある道路に線路が敷かれていた。この道は、現在の市役所通りを交差して、成田山新勝寺方面へ延びている。この先、写真を中心に元線路跡をなぞって歩いてみたい。
京成成田駅から成田山新勝寺へ向かう人の多くは、現在は新勝寺門前町が連なる「表参道」を歩いて行き来する。お参りに加えて門前町を“そぞろ歩く”ことも楽しみの一つになっている。一方、京成成田駅から成田山新勝寺へ電車が走っていた“道”は、人通りが少ない。「表参道」と比べると、ほとんど歩行者がいないといって良い。駅付近には表示がなかったが、この通りは「電車道」と呼ばれている。
この通りの名前こそ、成宗電車が走っていた証というわけだ。さて、市役所通りを横断して電車道を先へ向かう。すると……。
先に古いトンネルが見えてきた。このトンネルを成宗電車がくぐっていたのであろうか。
【成宗電気軌道④】トンネルを通り抜けた千葉交通バス。実は?
電車道に残されるレンガ造りのトンネルは2本ある。トンネルとトンネルの間には、成田市によって設けられた案内板が立つ。案内によると、この2本のトンネルは成宗電車「第一トンネル」「第二トンネル」と呼ばれる。完成は1910(明治43)年で、「煉瓦造(イギリス積)アーチ環6枚巻」の形式・構造とされる。成田山新勝寺側の第一トンネルは12.2m、京成成田駅側の第二トンネルは40.8mの長さがある。
電車は複線を走っていたとされ、トンネル幅は広く、現在も片側一車線の道幅でゆったりしている。
案内板には「電車は地域に欠かせない乗り物となりましたが、戦争の激化により、遊覧的色彩が強いこと等を利用として、政府の命令により営業廃止となりました。これにより昭和19年に業務を停止し、35年に渡って成田の街を走り続けた成宗電車は幕を閉じました」とあった。非常に分かりやすい解説だった。
欠かせない乗り物だったものが、政府の命令により、問答無用で廃止となっていったわけだ。今だったら大反対運動が起こっていたことだろう。
さて、第一トンネルの写真を撮っていると路線バスが走ってきた。千葉交通の路線バスだ。成宗電車は廃止時に成田鉄道を名乗っていた。成田鉄道という会社は、その後、路線の廃止により鉄道事業から撤退。鉄道からは手を引いたものの、会社は交通事業者として存続し、戦後すぐに成田バスと改称して、バス会社として存続していた。1956(昭和31)年には千葉交通と会社名を改称している。
千葉交通では、成宗電気軌道として起業した年を会社の創立年としており、2008(平成20)年には創立100周年を迎えていた。記念事業として、成田市内でクラシックなボンネットバスを運行させた。電車はバスに変わったものの、同路線を同じ会社の乗り物が走っていたことが分かった。交通事業者としての意地が伝わるようで、うれしく感じた。
【成宗電気軌道⑤】“電車道”を歩いて成田山新勝寺の前へ
第一トンネルを抜けると下り道となる。緩やかなカーブ道を下りていくと、沿道に「電車道」の看板もあった。今も成宗電車の名残は「電車道」として生きていた。そして、電車道越しに成田山新勝寺が見えてきた。
旧不動尊の停留場跡は道路幅も広く、このあたりに停留場があったことが十分に予測できた。そして道は門前町に入った途端に細くなり、古い町並みとなる。土産物店や、うなぎなどの名物を商う飲食店が軒を連ねる。
帰りは電車道を通らず、新勝寺門前町が連なる「表参道」をぶらりと散歩しながら、京成成田駅へ戻った。
【成宗電気軌道⑥】成田駅の南は線路跡らしい箇所が消滅していた
後半では成宗電車が走っていた宗吾を目指す。古い地図を見ると、京成成田駅からは、ほぼ現在の京成本線に沿って走っていたと思われる。JR成田線の下をくぐり、線路は宗吾を目指していた。
京成本線と平行に走っていた成宗電車は、現在の日赤成田病院前交差点から国道464号上を走っていた。この国道464号は今も「宗吾街道」と呼ばれている。宗吾へ向けて走っていた通りということが良く分かる。
成宗電車が走っていたことを示す証は、この宗吾街道上にはなかった。宗吾街道の南側に公津の杜と呼ばれる地区があり、京成本線では公津の杜駅が最寄り駅となる。このあたりは、京成電鉄により開発されたニュータウンが広がる。
宗吾街道は、公津の杜公園と呼ばれる緑地帯を縁取るようにカーブして宗吾へ向かっていた。
【成宗電気軌道⑦】宗吾霊堂があり栄えた宗吾の町なのだが
宗吾街道を公津の杜公園から先へ歩く。ややアップダウンがあるものの、電車が走るのには問題がない勾配に思われる。途中、停留場があった大袋を過ぎ、宗吾地区へさらに向かった。
住宅が立ち並ぶ地区が宗吾だ。国道464号は直角に曲がる。この角に東勝寺(とうしょうじ)がある。東勝寺は真言宗豊山派のお寺で、開基は坂上田村麻呂とされ、創建は8世紀とある。東勝寺という名前よりも宗吾霊堂という名前の方が良く知られている。
宗吾霊堂には義民・佐倉宗吾の霊が祀られている。宗吾は江戸時代の初期、下総佐倉藩を治めた堀田氏の圧政に苦しむ農民のために、将軍へ直訴を行い、そのかどで処刑された人物だ。この宗吾の義挙は人々の支持を得て、その後に歌舞伎、浪花節などの主人公として謳われ名前が広まった。そして、宗吾霊堂として祀られたのだった。
調べてみると、民衆に人気のあった宗吾を祀ったとあり、江戸時代から昭和にかけてはお参りする人も多かったようだ。成田と宗吾を結ぶ成宗電車も開業し、参詣客でさぞや賑わったことだろう。
宗吾の町は、この宗吾霊堂があることで栄えた。成宗電車の停留場があったころは、きっと賑やかだったのであろう。だが、今は車で参拝に訪れる人が散見されたものの、やや寂しさが感じられた。
【成宗電気軌道⑧】地元のお年寄りに声をかけてみるとある発見が
さて、宗吾の停留場はどこにあったのだろう。古い地図を持ちつつ、町を右往左往する。ところが、どこにも停留場跡らしきものが見当たらなかった。
なんとか跡が見つからないだろうかと歩いてみたが、何もない。あきらめて帰ろうとしたら、ちょうど高齢の女性が杖をつきゆっくり歩いている。家の前には母親を迎える息子さんらしき姿が。
門前の歩道が細いこともあり、女性に道を譲りつつ待つ合間に息子さんに話しかけてみた。
「宗吾の昔の信号場はどこにあったのでしょう」
「昔の駅ですよね。今はすっかり民家になってしまって、ほとんど残っていないんです」
そこへ母親が到着。ちょうど筆者が持参していた古い絵葉書のコピーを手渡した。「あら懐かしい。この電車ね、駅でなくとも、手を上げたら乗せてくれたのよね」と昔のことを思い出しながら話をしてくれた。
「宗吾でこの電車が走っていたころを知る人は、たぶんうちの母のみだと思います」と息子さん。「この電車ね、その後に函館市電を走っていると聞いて、若いころに町の人たちと乗りにいったわ」と母親。これは初耳、良い話を聞かせてもらった。
調べてみると、成宗電車の電車は多くが函館市電(現・函館市交通局が運行/当時は函館水電)へ。デハ1形と呼ばれる電車5両が、函館市電に譲渡されていた(車両数が多かったため余剰の車両を譲っていた)。譲渡されたのは1918(大正7)年のこと。その1両は今も生き延びていた。「函館ハイカラ號」として1993(平成5)年に復元されて、今も春から秋まで(現在は新型コロナウイルスの影響により、運転休止の場合あり)は、函館の街を走る復元チンチン電車として走っていた。筆者も函館の街で何度か見かけたが、かつて成宗電車を走った電車だったとは、うかつにも知らなかった。
女性はこうも話していた。「戦争の時に電車がなくなったでしょう。働いていた人たちは大変。働き場所がなくなったので、宗吾霊堂で働かせてもらったりしたんですよ。でもね、鉄が足りないといって廃止されたんだけれど、レールはその後も、しばらくはそのままだったわね」。
不要不急線として廃止されたものの、レールの供出までは、手が回らなかったということなのだろう。矛盾した話である。
さらに「昔はこのあたり、多くの蕎麦屋さんがあって、とっても賑わっていたの」だそうだ。結局のところ、電車の廃止は地域経済への打撃も大きかった。成宗電車がもし走り続けていたら、宗吾霊堂の名前は、今も知られた存在だったのであろう。電車がなくなり、すっかり忘れられてしまったようである。
いま、宗吾霊堂の最寄り駅は京成電鉄の宗吾参道駅となる。徒歩で12分ほどだ。とはいうものの、上り坂が途中にあり、高齢者にはつらい行程かと思われる。さらに宗吾霊堂は成田市内だが、宗吾参道駅は酒々井町(しすいまち)の町内の駅となる。自治体が異なると、やはり連携したPR活動もできないのかもしれない。よってPR効果も期待できない。
宗吾は時代から取り残された印象があり、寂しく感じられた。鉄道が消えるということは、こういうことなのだろう。