【多古線その⑦】現在の芝山千代田駅の南に旧千代田駅があった
本数が少ない閑散バス区間に、逆に筆者は興味を持った。
さらに多古線という路線名が付いたように、どうして多古を通るルートになったのか。筆者は、この多古線を巡る前、多古町(たこまち)という町名をあまり良く知らなかった。同音異句の言葉にタコがあり、そのことが印象に少し残ったぐらいだった。
成田空港の南東側は芝山町となる。この町には芝山鉄道という鉄道会社の路線が走る。路線距離は2.2kmで、日本一短距離の路線を持つ鉄道会社だとされている。終点駅は芝山千代田駅だ。この駅へ立ち寄るバスはさらに少なく、1日に上り下りとも2便ずつといった状態だった。つまり乗り継ぎなどで芝山千代田駅を使う人がほぼいないということなのだろう。
筆者は芝山千代田駅から最寄りの千代田バス停まで歩いてみた。空港の東側はターミナルなどさまざまな施設があり、また車の通行量も多く、それなりの賑わいを見せていた。芝山千代田駅から千代田バス停までは600mで、歩いても8分ほどの距離だった。
千代田バス停から多古線をたどって路線バスに乗車してみて驚いた。休日の日中のバスには筆者以外、誰も乗っていなかった。多古までの途中、1人が乗車してきたくらいだ。八日市場駅〜千代田バス停区間は、超閑散区間だったわけである。コロナ禍の最中とはいえこの乗車人数を考えれば、便数の少なさも致し方ないのだろうと感じた。ちなみに、走るバスも成田駅〜三里塚バス停間より古い車両が使われ、乗り心地の良さにやや欠けた。この区間に住む人たちの大半が路線バスを使わず、移動はマイカーに頼っているのかも知れない。
【多古線その⑧】バスはひたすら田園地帯を走り多古へ向かった
バスは芝山町の千代田バス停から、多古線の線路跡を利用した道を走る。道幅は片側一車線もなく、一部区間では対向車とのすれ違いが難しい。ちょうど線路の幅を広げたくらいに見えた。とはいえ起伏が少なく、切り通しや田畑を見下ろす斜面上を走るなど、快適な道だ。交差する一般道とは立体交差する箇所もあり、やはり昔の鉄道路線らしい痕跡がうかがえる。
旧千代田駅と多古町の入口にあった旧染井駅との間には2つほど駅があったとされる。この区間、実は旧路線と、廃止時の新線区間があった。ここでも軌間幅を広げる時に路線の敷き直しをしたようだ。しっかりした記録がないため推測の域を出ないが、このあたりの路線造り直しも、鉄道連隊が演習として関わったのだろうか。
旧千代田駅から10kmほどで旧多古駅へ到着する。この多古駅にも新旧2つの駅があった。この新旧駅を訪れて、加えて多古の町も歩いてみた。さて多古の町はどのような町だったのだろう。
【多古線その⑨】多古には江戸時代、小さな藩が設けられていた
路線バスは、現在の多古の公共交通機関の拠点でもある多古台バスターミナルに到着した。このターミナルからは東京駅八重洲口へ高速バスが走る。また、成田空港の第2ターミナルへのシャトルバスが約30分〜1時間おきに発着している。
訪れてみて、路線バスの乗客が少ないことが理解できた。今の路線バスは、昔の多古線のように成田と多古、そして八日市場を結ぶものの、その間に住む人々の移動手段として使われていない。成田空港があることで空港の東と西で、行き来が断ち切られてしまっている。むしろ、多古からは東京の都心および成田空港(鉄道駅もあり利用しやすい)との結びつきが強い。路線バスに乗って、成田と多古間を移動しようという筆者のような“物好き”は、いないようだった。
多古は古い歴史を持つ町でもあった。現在の町名の書き方とは異なるが、徳川家康が関東を治めるにあたって、多胡藩という小藩が置かれた。小藩ゆえの悲哀で一時期、他の大名領に併合されることもあったが、江戸時代の終わりまで藩は続き、廃藩置県後に、多胡県、新治県となったのちに、千葉県に編入されている。
今も町内に藩の政治が行われた陣屋跡が残る。また、前島 密(郵便制度の生みの親)の要請で千葉県初の郵便局が開設された。同郵便局は1942(昭和17)年に建て替えられたが、今も建物が残されている。
多古という町は、千葉県の行政に関わる重要な都市でもあったのだ。そのために鉄道の路線名を付ける時にも多古の名前が使われたのであろう。