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2021/11/21 6:00

金沢市と郊外を結ぶ「北陸鉄道」2路線−−10の謎解きの旅

【北陸謎解きの旅⑦】浅野川線に元京王電車が導入された理由は?

ここからは金沢駅に戻り、北鉄金沢駅から走る浅野川線の旅を楽しんでみたい。まずは路線の概要と、走る車両の紹介から。

 

◆北陸鉄道浅野川線の概要

路線と距離北陸鉄道浅野川(あさのがわ)線/北鉄金沢駅〜内灘駅6.8km、全線単線直流1500V電化
開業1925(大正14)年5月10日、浅野川電気鉄道により七ツ屋駅〜新須崎駅(しんすさきえき/現在は廃駅)が開業、1926(大正15)年5月18日に金沢駅前までまで延伸。1929(昭和4)年7月14日に粟ヶ崎海岸駅(あわがさきかいがんえき/現在は廃駅)まで延伸開業。
駅数12駅(起終点駅を含む)

 

まずは、浅野川電気鉄道により歴史が始まった北陸鉄道浅野川線。終点となる内灘駅へは大野川を渡る必要があり、橋の架橋に時間がかかった。新須崎駅開業の4年後に現内灘駅の先の粟ケ崎海岸まで路線が延びた。粟ケ崎には粟崎遊園があり、金沢市民の憩いの場として賑わった。後に粟崎遊園は軍の鍛練用地となり、戦後は内灘砂丘に米軍の試射場計画のため、また港湾整備などのため路線は縮小。現在は内灘駅が終点となっている。

 

北陸鉄道との合併は1945(昭和20)年10月1日のことで、太平洋戦争後のこと。戦時統合でなかば強制的に合併が決定され、戦後も計画は頓挫することなく、合併が進められた。

 

現在、この浅野川線を走る北陸鉄道の電車は2種類ある。

 

◆北陸鉄道8000系電車

↑北鉄金沢駅の地下化に伴い導入された元京王井の頭線の3000系。写真の片開き扉車両で8800番台に区分けされている

 

元京王井の頭線を走っていた3000系で、2001(平成13)年3月28日に起点の北鉄金沢駅が地下化されるのを機会に、地下化に向けて1996(平成8)年と1998(平成10)年に譲渡された。それまでの浅野川線の電車は吊り掛け式の旧型車両が多く、地下化に伴う火災対策、不燃化基準を満たさない車両とされていた。

 

京王3000系はオールステンレス車ということで地下化の基準に合致したこと、また売り込みもあり、同車両の導入を決めたのだった。同じ時期に浅野川線の電化方式を直流600Vから直流1500Vへ変更されたこともあり、この昇圧にも見合った電車でもあった。3000系は計10両が導入され、北陸鉄道8000系となった。8000系には2タイプあり、乗降扉が片開きの車両が8800番台、また両開きの扉を持つ車両が8900番台と区分けされている。

 

◆北陸鉄道03系電車

↑東京メトロ日比谷線を走った03系が浅野川線を走る。オレンジの帯で日比谷線を走っていた当時に比べると華やかな印象を受ける

 

浅野川線にとって四半世紀ぶりとなる〝新車〟が2020(令和2)年の暮れに導入された。その電車は03系。元東京メトロ日比谷線を走っていた03系で、日比谷線では銀色の帯だったが、8000系に合わせたオレンジの帯に刷新された。2021年秋までに2両×2編成がすでに走り始め、2024年度までに5編成が導入される予定だ。これが計画どおりに進めば、既存の8000系は消滅ということになりそうだ。

 

【北陸謎解きの旅⑧】そもそもなぜ浅野川線という路線名なのか?

金沢駅といえば兼六園口(東口)広場に立つ鼓門(つづみもん)が名物になっている。いつも記念撮影をしようという多くの観光客で賑わう。そのすぐ横にあるバスのロータリーのちょうどその下、地下フロアに浅野川線の起点、北鉄金沢駅がある。訪れた日、駅に停車していたのが03系だった。日比谷線を引退して以来、はじめて乗る03系だ。車内はリニューアルされてきれいに。それぞれのドア横に開け閉めのボタンが付く。

 

北鉄金沢の地下駅で見た03系は、帯色がオレンジで華やかになり、編成が短くなったものの、地下鉄日比谷線の電車として見慣れた印象があり、地下駅にしっくりと合っているように見えた。

↑金沢駅の兼六園口の地下にある浅野川線の起点・北鉄金沢駅。6時7時台と、17時台は20分間隔、他の時間はほぼ30分間隔で発車

 

ところで、なぜ浅野川線と呼ばれるのだろうか。開業時に浅野川電気鉄道という名の鉄道会社が開業させたこともあるのだが、同路線の名前にした理由は本原稿の最初に掲載した地図を見ていただくと良く分かる。

↑北鉄金沢駅からは地下を走り、IRいしかわ鉄道線をくぐり抜け地上を走り始める。次の七ツ屋駅から先はほぼ浅野川に沿って走る

 

浅野川線は北鉄金沢駅の次の駅、七ツ屋駅から大河端駅付近までほぼ平行して浅野川が流れている。車窓から川の土手を見る区間も多く、したがってこの路線名になったことが良く分かる。「金沢城の東側をゆったりと流れる浅野川では風情ある景観に出会える」と金沢市の観光パンフレットにもある。地元では金沢市街の南を流れる犀川を「男川」と呼ぶのに対して、浅野川を「女川」と呼ぶ。それほど、市民になじみの川であり、身近な川の名前だったわけである。

 

浅野川線は、しばらく半地下構造の路線を走り、北陸新幹線とIRいしかわ鉄道線の高架橋をくぐり地上部へ。そして次の七ツ屋駅へ到着する。先に乗った石川線に比べると、より都会的な路線という印象が強い。

 

路線はこの先、金沢市街を走る。磯部駅を過ぎると、進行右から川の堤が近づいてくるが、この堤を越えた側が浅野川だ。堤防の上には浅野川左岸堤防道路が走っている。電車からは道を走るクルマをやや見上げる形でしばらく並走する。

↑大河端駅〜北間駅間を走る浅野川線の8000系。この左側に浅野川の堤防がある

 

途中駅の名前を何気なく書いてきたが、意外に難読駅がある。まずは大河端駅。おおかわばたえき? と読みそうだが、こちらは「おこばたえき」だ。

 

さらに分かりにくいのは蚊爪駅。蚊に爪と書く珍しい駅名だ。いわれも気になるところなので、調べてみた。

↑ホーム一つの小さな駅・蚊爪駅。駅名の読みはホームに立つ駅名標にしかなかった。さてどのようないわれがあるのだろう?

 

「蚊爪」とは「かがつめ」と読む。この地域が金沢市蚊爪町(かがつめまち)という町名から由来する。さらに金沢市に併合される前には東蚊爪村、西蚊爪村という村があったとされる。蚊爪という名の起源は「芝地」や「草地」の意味で、そうした土地には蚊が多いということもあったのだろうか。そこまで明確な答えは導き出せなかったのが残念だった。

 

難しい読み方の蚊爪だが、金沢市民にはおなじみの地名なようだ。東蚊爪に運転免許センターがあるせいだろう。

 

【北陸謎解きの旅⑨】大野川橋りょうの形は何か意味があるの?

蚊爪駅を過ぎると、いよいよ同線の人気撮影ポイントの大野川を渡る大野川橋梁にさしかかる。ちなみに橋の手前には新須崎駅があったが、現在はもうない。橋の先に粟ヶ崎駅(あわがさきえき)があり、その先が終点の内灘駅となる。

 

大野川橋梁は少し不思議な形をしている。橋の前後に勾配があり、電車はこの橋を登って中央部からは下る。時速15kmに落としてゆっくりと渡るのだ。よく見るとガーダー橋なのだが、前後は線路が鉄製のガーダーと呼ばれる鋼製の構造物の上に線路が敷かれる。この構造を「上路線」と呼ぶ。中央部では線路がガーダーの下部に付く「下路橋」という構造をしている。単一でなく、複雑な構造をしているわけだ。また中央部には架線柱が設けられる。前後のガーダーの下は水面までのすき間があまりない。中央部のみ小さな船が通り抜けられるようにすき間をあけた構造となっている。

↑大野川橋梁を渡る03系。中央部を見ると、ここのみ橋の下の上下の隙間が広くなっていることが分かる

 

大野川には前述した浅野川が流れ込む。また大野川の上部には河北潟(かほくがた)がある。河北潟は昭和期まではフナ、ワカサギ、ウナギ、シジミなどの漁業が行われていた。しかし、干拓などの影響があったのか、漁獲量は減っていき、昭和中期に漁業権が消滅している。また河北潟から出る川はかつて大野川のみだったが、今は北側に日本海に直結した河北潟放水路が設けられている。放水路の出口と大野川を結ぶ所にはそれぞれ防潮水門があり、水量の調節も行えるようになっている。

 

大野川橋梁はそうした河北潟でかつて漁業を営んだ人たちが、小船が出入りすることができるように、こうした特殊な構造にしたのであろう。

 

【北陸謎解きの旅⑩】旧粟ケ崎海岸駅へのルートはどこに?

大野川橋梁を渡って間もなく浅野川線の終点、内灘駅に到着した。北鉄金沢駅から乗車時間17分と近い。ちなみに内灘駅という駅名となったのは1960(昭和35)年5月14日のこと。かつては内灘駅近くに粟ヶ崎遊園駅があり、その先は海岸に近い粟ヶ崎海岸まで路線が設けられていた。旧路線はどのように敷かれていたのだろう。気になるところだ。

↑内灘駅構内の左にカーブする線路が見えるが、この先に粟ヶ崎海岸駅があった。旧地図を見ると海岸まで路線が延びていたことが分かる(右上)

 

 

内灘駅には車庫があり8000系や03系が並ぶ。この駅の構造には、少し疑問に感じることがある。駅の手前でやや左カーブしてその先にホームが設けられている。古い地図を見比べてみると、この左にカーブする理由が分かった。

 

太平洋戦争前の時点では、内灘駅はまだ無く、左カーブして、その先に粟ヶ崎遊園という駅があった。さらに駅の先で右カーブ、海岸まで線路が敷かれ、海水浴場前に粟ヶ崎海岸駅があった。内灘駅開業当時の地図を見ると、左カーブしたその曲がった地点が駅となっていた。

 

今の内灘駅の検修庫に入る線路の左側にカーブした線路が敷かれるが、このカーブこそ、かつては粟ヶ崎海岸まで延びていた路線の名残だったのである。金沢にも近いことがあり、内灘駅周辺は住宅も多く、路線バスが多く発着している。石川線の鶴来駅に比べると、とても賑わっているように思われた。

↑浅野川線の終点・内灘駅。裏には車庫がある。左上は搬入された当時の03系。現在とは異なり当初は銀色の帯が巻かれていた

 

前述したように北陸鉄道の両線間にはLRT路線の建設プランも浮上してきている。LRT計画が成就したとすれば、北陸鉄道の両線は大きく変わる可能性を秘めている。その時に、また旅をしてどのように変わったのか見てみたいと思った。

 

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