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2022/7/30 21:00

筑豊をのんびり走る「田川線・糸田線」の意外な発見づくしの旅

おもしろローカル線の旅90〜〜平成筑豊鉄道・田川線・糸田線(福岡県)〜〜

 

平成筑豊鉄道には、先週紹介した伊田線(いたせん)のほか、田川線(たがわせん)と糸田線(いとだせん)という2本の路線がある。全線複線の伊田線とは対照的に、全線単線の田川線と糸田線。両線の旅では予想外の発見もあった。かつて炭鉱が点在した筑豊を走るローカル線の旅を楽しんでみたい。

*取材は2013(平成25)年7月、2022(令和4)年4月3日と7月2日に行いました。一部写真は現在と異なっています。

 

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【田川・糸田線の旅①】豊州鉄道という会社が造った2本の路線

まずは2線のうち、田川線の概要を見ておこう。

路線と距離平成筑豊鉄道・田川線:行橋駅(ゆくはしえき)〜田川伊田駅(たがわいたえき)間26.3km 全線非電化単線
開業1895(明治28)年8月15日、豊州鉄道(ほうしゅう)により行橋駅〜伊田駅(1982年に田川伊田に駅名改称)間が開業
駅数17駅(起終点駅を含む)

 

2本目の糸田線の概要は次の通りだ。

路線と距離平成筑豊鉄道・糸田線:金田駅(かなだえき)〜田川後藤寺駅(たがわごとうじえき)間6.8km 全線非電化単線
開業1897(明治30)年10月20日、豊州鉄道(ほうしゅう)により後藤寺駅(1982年に田川後藤寺に駅名改称)〜宮床駅(現在の糸田駅)〜豊国駅(貨物駅)間が開業。
1929(昭和4)年2月1日、金宮鉄道(きんぐうてつどう)により糸田〜金田駅間が開業
駅数6駅(起終点駅を含む)

 

平成筑豊鉄道の伊田線は今から129年前の1893(明治26)年に部分開業した。その2年後に田川線が、さらにその2年後に糸田線の一部が開業している。当時は筑豊の炭鉱数、出炭量も急速に増え、増大する輸送量にあわせるかのように次々と新たな路線が設けられていった。

 

【田川・糸田線の旅②】豊州鉄道を創立した人となりに注目したい

田川線、糸田線ともに、路線を敷いたのは豊州鉄道(初代)という鉄道会社だった。この会社が開業させた複数の路線が、今もJR九州の路線として活かされている。

 

豊州鉄道が開業させたのは平成筑豊鉄道の田川線、糸田線のほかに、現在の日豊本線となった行橋駅〜柳ケ浦駅(やなぎがうらえき)間、日田彦山線の田川伊田駅〜川崎駅(現・豊前川崎駅)間と多い。同社が開業した路線の総延長は85.2kmに及ぶ。ところが現・田川線を開業させた後、わずか6年で九州鉄道と合併し、豊州鉄道の名前は消滅した。短期間に積極的な路線敷設を行い、さらに九州最古の鉄道トンネル(詳細は後述)を設けるといった当時としては新しい試みも行っていた。

 

豊州鉄道の創設者は村野山人(むらの さんじん)と呼ばれる人物だ。なかなか豪快な人生を送っているので触れておきたい。村野が生まれたのは現在の鹿児島県鹿児島市城山町で、父は島津斉彬(しまづなりあきら)の奥小姓役だったが、お由羅騒動(おゆらそうどう)と呼ばれたお家騒動に連座、遠島となる。のちに赦免されたものの帰藩する船の中で亡くなってしまった。そのため村野家は家財を没収され、山人は悲惨な幼少時代を送ったとされる。その後に嫌疑が晴れ、村野家の家督を相続する。

 

明治維新後の動きがすごい。教師、志願兵として台湾出兵に従軍、警部、兵庫県職員などを務めた後、鉄道実業家となる。鉄道との関わりもかなりのものだ。まずは山陽鉄道の副社長を勤める。その後、豊州鉄道の総支配人、阪鶴鉄道(はんかくてつどう/現・福知山線、舞鶴線)の発起人、ほか門司鉄道、九州鉄道、南海鉄道、豊川鉄道、京阪電気鉄道、神戸電気鉄道などの鉄道経営に参画。衆議院議員を2期つとめ、最初の鉄道会議議員となり、さらに私財を投じて、工業高等学校まで創立している。

 

この足跡をたどるだけでも実にバイタリティをあふれる人物に見える。こうした草創期の鉄道路線網の整備に功績をあげた人物により田川線、糸田線は造られたのである。

↑日田彦山線の彦山駅(ひこさんえき)。田川線の駅として1942(昭和17)年に誕生した。豪雨により路線休止となり同駅舎も解体された

 

田川線は現在、行橋駅〜田川伊田駅間となっているが、古くは田川伊田駅から先、現在の日田彦山線にあたる一部区間も田川線として造られた路線だった。田川線は次のように延伸された。九州鉄道との合併も含め見ていこう。

1895(明治28)年8月15日行橋駅〜伊田駅(現・田川伊田駅)間を開業
1896(明治29)年2月5日伊田駅〜後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)間を開業
1899(明治32)年7月10日後藤寺駅〜川崎駅(現・豊前川崎駅)間を開業
1901(明治34)年豊州鉄道が九州鉄道と合併
1903(明治36)年12月21日川崎駅〜添田駅(現・西添田駅)間を開業
1907(明治40)年7月1日九州鉄道が官設鉄道に買収される
1942(昭和17)年8月25日西添田駅〜彦山駅間を開業

 

ここで記したのは旅客営業を行った路線のみで、貨物支線まで含めると膨大な路線が田川線として開設された。その後、田川線は1960(昭和35)年に行橋駅〜田川伊田駅(当時の駅名は伊田駅)間の区間のみとなり、田川伊田駅から南は日田彦山線となった。日田彦山線は2017(平成29)年7月に同路線を襲った「平成29年7月九州北部豪雨」により多大な被害を受けて添田駅〜夜明駅(日田駅)間の列車運行が休止されてしまう。鉄道路線としての復旧は困難と判断され、JR九州と地元自治体との話し合いを経てBRT化することに合意。2023(令和5)年度のBRT転換を目指して工事が進められる。かつて田川線だった彦山駅もこの不通区間に含まれ、モダンな駅舎もすでに解体されている。

 

一方の平成筑豊鉄道・田川線も2012(平成24)年の豪雨など度重なる災害で多大な被害を受け、長期間不通となってきたが、そのつど復旧工事が行われ運転再開を果たしている。私企業となったJR九州と、第三セクター経営の平成筑豊鉄道との違いがこうした差に出ているようにも感じる。

 

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【田川・糸田線の旅③】一駅区間はJRと共用区間を走る

歴史の話が少し長くなったがここからは路線の紹介に話を進めたい。田川線の起点は行橋駅だが、前回に伊田線の紹介をしたこともあり、田川伊田駅から話を進めよう。田川伊田駅ではJR九州の日田彦山線と接続している。

 

日田彦山線の一部区間が、かつて田川線として開業されたこともあり、今も両線は縁が深い。

↑田川市の玄関口・田川伊田駅。田川線は1・2番線ホームから、日田彦山線の列車は3・4番線ホームから発車する(右上)

 

実は平成筑豊鉄道・田川線の田川伊田駅と次の上伊田駅(かみいたえき)間は単線区間で、日田彦山線と線路を共用しているのである。このあたり、路線紹介を行うガイドや、Webにも解説がないこともあり、筆者も現地で実際に列車に乗ってみてはじめて気が付いた。

 

ちなみに、国土交通省鉄道局が監修している「鉄道要覧」にも田川伊田駅〜上伊田駅間はJR九州・日田彦山線と平成筑豊鉄道・田川線2社のどちらの路線か明記されていない。

 

さて、田川伊田駅から平成筑豊鉄道の列車は田川線へ入っていく。伊田線の直方駅(のおがたえき)から走ってきた列車の大半は、列車番号が変わるものの、そのまま田川線を走り終点の行橋駅を目指す。そうした列車の中で一部が、田川伊田駅で時間調整をして次の上伊田駅へ向かうのだが、路線を共用する日田彦山線の列車とかち合うため時間調整をしていたのだ。

↑彦山川橋梁を渡る田川線の列車。JR九州の日田彦山線の列車も同橋梁を共用している(右上)。複線分の橋脚が設けられている

 

田川伊田駅の東側で田川線の線路と日田彦山線の線路が合流し、彦山川(ひこさんがわ)橋梁を渡る。この彦山川は遠賀川(おんががわ)の支流となる。

 

この橋梁、現在は単線が通るのみだが、興味深いのは橋脚部分に線路1本を通せる余分なスペースがあること。かつては複線だったのを橋げたを外したのか、複線にするために橋脚をひろげたのか、資料がなくはっきりしないが、推測するに太平洋戦争前後に橋げたを外す、もしくは複線化を図ろうとしたのかも知れない。

 

田川伊田駅を発車する田川線の列車は朝の6時、8時、18時に1時間に2本で、あとは1時間に1本の列車本数。日田彦山線もほぼ同様と列車本数は少なめなので、前述したように一部の列車に時間調整が必要なものの、複線にしなくとも運転に支障はないようだ。

 

【田川・糸田線の旅④】上伊田駅前後の線路配置がおもしろい

田川伊田駅から彦山川橋梁を渡り約1.4km、上伊田駅の手前にある分岐ポイントで、両線の線路が分かれる。田川線の列車は右手へ、そして上伊田駅のホームへ到着する。一方、日田彦山線の列車は上伊田駅手前の分岐ポイントを左へ入る。上伊田駅では両線の線路がほぼ並行しているのだが、日田彦山線の上伊田駅のホームは設けられていないので、列車は上伊田駅を横目に見て走り抜けていく。

↑「神田商店上伊田駅」と駅名が記される田川線・上伊田駅。駅のすぐ西に日田彦山線との分岐ポイントがある(左上)

 

上伊田駅の手前で分岐した田川線と日田彦山線の線路は、上伊田駅の東側にある猫迫1踏切を通り抜けてすぐに、線路が離れていく。田川線は直線で次の勾金駅(まがりかねえき)へ向かい、日田彦山線は、左に大きくカーブして一本松駅へ向かう。このあたりの線路の分岐、合流の様子が興味深い。

 

上伊田駅付近には、かつてもう一本の線路が通っていた。添田線と呼ばれ、現在の駅名と同じ上伊田駅があった。日田彦山線の一本松駅付近から現在の上伊田駅へ至る途中に分岐があり、田川線とクロスして日田彦山線の添田駅へ向かっていた。添田線は田川伊田駅を通らない日田彦山線のバイパス的な路線で、貨物列車の走行には便利だったが、田川伊田駅を通らないことで旅客路線としては営業的に芳しくなく1985(昭和60)年4月1日に廃止されている。ちなみに上伊田駅は場所を移し、田川線の新駅として2001(平成13)年3月3日に開業した。

↑上伊田駅へ近づく田川線(右)と日田彦山線(左)。本写真は合成したもので、実際には同時間にこうして走ることはない

 

田川伊田駅周辺は、調べてみると多くの路線が走っていたことに驚かされる。だが、石炭輸送がなくなり、いわば〝無用の長物〟になってしまったのだ。

 

【田川・糸田線の旅⑤】油須原駅など途中駅もなかなか興味深い

上伊田駅を発車すると列車は田川市から香春町(かわらまち)へ入る。間もなく着くのが勾金駅。同駅から北に設けられた旧・夏吉駅まで貨物線が設けられ、セメント列車が走っていたが、すでに廃線となっている。かつての路線は、道路となり廃線跡として偲ぶことができる。

 

勾金駅の次の駅が柿下温泉口駅。その名前の温泉が近いのかと思ったら、肝心の柿下温泉は徒歩15分と遠めで、しかも長期休業中となっていた。高濃度の天然ラドン泉で泉質は人気があっただけに残念だ。柿下温泉口駅から先は、山景色が間近に見えるようになる。次の内田駅からは赤村へ入る。

 

内田駅の次は赤村の村名そのものを付けた赤駅に到着する。この赤駅には、「赤村トロッコ油須原線(ゆすばるせん)」という観光トロッコが走っていたのだが、コロナ禍もあり、現在運転休止となっている。

 

赤駅の次は、油須原駅となる。この駅の読み方は「ゆすばる」。九州には「原」を「はる」または「ばる」と読ませる地名が多い。油須原駅は鉄道ファンとしては必見の駅である。まずは築127年という九州一古いと言われる木造駅舎が今年の2月に復元改装され、きれいに整備されている。駅舎内には「鉄道作業体験室」や「ギャラリー」が設けられた。将来的には出札口の復元も目指すそうだ。

↑復元改装された油須原駅の駅舎は内外装もきれいに。ホームには古い腕木式信号機(左上)やタブレットの受け器(左下)もある

 

ホームには古い腕木式信号機や、タブレットの受け器も保存されている。油須原駅はさながら鉄道資料館のようになっていた。

 

この油須原駅で触れておかなければいけないことがある。かつてこの駅に至る「油須原線」という路線計画があったのだ。1950年代半ばから工事が始まり、油須原線のうち、漆生駅(うるしおえき/現・嘉麻市 かまし)と、日田彦山線の豊前川崎駅までの路線は1966(昭和41)年3月10日に開業した。豊前川崎駅と油須原駅間の工事も着工したが、その後に、工事中断、再開が繰り返された末に1980(昭和55)年、正式に工事が凍結。開通した漆生駅〜豊前川崎駅間も1986(昭和61)年4月1日に廃止されてしまった。

 

開通からわずか20年で廃線となった油須原線。さらに工事が完了した区間もあったが、放棄されてしまった。石炭輸送のためにこうした計画が立てられ、エネルギー源が著しく変わり、輸送目的が消滅することが見えていたのにもかかわらず、工事が続けられ、無駄になったわけである。こうした歴史をたどるたびに、進められた公共工事の見通しの甘さを痛感する。時代が変わろうとも、進められる公共工事が本当に将来に必要なものかどうか、見極める術と、止める決断も大事なのだろうと思う。

 

【田川・糸田線の旅⑥】源じいの森で気がついた意外なこと

田川伊田駅から乗車20分で源じいの森駅へ到着した。「源じいの森」とは珍しい駅名だが、これは駅に隣接する自然公園「源じいの森」に由来する。源じいという、おじいさんが住んでいたのかなと、勝手に想像していたのだが、まったく違った。「源」はこの付近に生息する源氏蛍の「源」で、「じい」は赤村の村の花・春蘭の方言名である「じいばば」の「じい」、そして赤村の7割以上を占めている森林の「森」を組み合わせたものだそうだ。

↑源じいの森駅に停車する金田行き上り列車。駅の近くには源氏蛍が生息する渓流・今川が流れ、自然公園「源じいの森」がある

 

駅のすぐそばに「源じいの森」の受付がある建物があり、その周囲にキャンプ場などのレクリエーション施設が広がる。ちなみに、平成筑豊鉄道の1日フリー乗車券「ちくまるキップ」(大人1000円)を購入すると源じいの森温泉の入湯料が無料となる。

↑源じいの森の受付や宿泊施設などがある建物。この目の前に車掌車が保存されていた(右上)

 

受付や宿泊施設が入る建物の道路をはさんだ向かいに、塗装がやや薄まっていたが、青い車掌車が保存されていた。ヨ9001という形式名の車両で、時速100km運転を目指して国鉄が開発した試験車両だった。実際には100kmでの運転は不可能ということが分かり、2両しか製造されなかった。その後に筑豊地方を走る貨物列車に連結して使われたとされる。筑豊がらみということで、この地に保存されているのであろう。

 

車掌車の横には田川線に関わる案内が建てられていた。源じいの森の下をくぐるように走る田川線。その先にある「石坂トンネル」に関する案内だった。

↑第二石坂トンネルを出て源じいの森駅を目指す列車。トンネルは複線用のサイズで造られていた

 

源じいの森駅の先には「第二石坂トンネル(延長74.2m)」と「第一石坂トンネル(延長33.2m)」の2本の「石坂トンネル」が連なる。このトンネルは1895(明治28)年に完成したもので、九州最古の鉄道トンネルとされている。レンガ構造で、外から見た入口はやや楕円形で、現在は単線の線路となっているが、将来的に複線化も可能な造りとなっている。複線化はかなわなかったが、当時の鉄道会社の資金力を見る思いだ。

 

この石坂トンネルは、九州最古であるとともに、ドイツ人技師・ヘルマン・ルムシュッテルの指導を受けた工学博士・野辺地久記(のべちひさき)が設計したトンネルとしても歴史的な価値が高く、国の登録有形文化財に指定されている。

 

田川線では今回、駅から遠く立ち寄ることができなかったが、内田駅〜赤駅間にある内田三連橋梁も当時の貴重な橋梁技術を後世に伝えるものとして国の登録有形文化財の指定を受けている。127年前に開業した田川線には、こうした貴重な鉄道史跡が残されているのである。

 

【田川・糸田線の旅⑦】古さが目立つ崎山駅などに停車しつつ

森に包まれた源じいの森駅を発車して2本の石坂トンネルを越え、赤村からみやこ町へ入る。車窓からは田畑が広がる景色が見えてくる。この風景の移り変わりを見ていると、源じいの森駅が、田川線の最も標高の高い駅だったことが分かる。車窓からは田園風景とともに源氏蛍が生息するとされる今川が眼下に見えてくる。

 

列車は崎山駅へ到着。この駅は1954(昭和29)年4月20日に信号場として造られ、2年後に駅として開業した。この崎山駅には10年ほど前にも一度訪れたことがあるのだが、駅施設は以前のままだった。手付かず、整備が行き届かずといった様子で、形容しづらい状況だ。

↑崎山駅の駅舎。駅が造られた当時に信号所だったこともあり、駅務員用に建物が設けられた。建物自体は昭和中盤の建築とされる

 

今、駅の屋根の一部には青いビニールシートがかかる。屋根瓦の落下が予測されることもあり、建物とその周囲が立ち入り禁止となっている。

 

崎山駅から犀川駅(さいがわえき)、東犀川三四郎駅、新豊津駅と進むにしたがい水田風景が広がっていく。豊津駅からは行橋市(ゆくはしし)に入り、沿線に民家も点在するようになる。そして今川河童駅(いまがわかっぱえき)へ。風変わりな駅名だが、地元の今川に伝わるかっぱ伝説にちなむとされる。駅に河童の銅像も立っている。

 

平成時代に生まれた美夜古泉駅(みやこいずみえき)、令和時代に生まれた令和コスタ行橋駅と停車し、今回の田川線の旅の終点駅・行橋駅に到着する。田川伊田駅から乗車約55分、源じいの森駅など、豊かな自然に包まれた車窓風景が記憶に残った。

↑日豊本線と連絡する行橋駅。田川線の乗り場は3・4番線ホームの南端、5番線(右上)にある。乗換え用の専用口も設けられる

 

【田川・糸田線の旅⑧】金田駅近郊で伊田線と別れる糸田線

ここからは、もう一本の糸田線の路線紹介に移ろう。糸田線は金田駅と田川後藤寺駅を結ぶ路線で、伊田線の支線の趣が強い。列車の運行は朝夕の糸田線内のみを往復する列車に加えて、9時〜16時台の列車は直方駅から伊田線内を走り、金田駅から糸田線へ乗り入れる列車が多くなる。列車の本数は上り下りともに1時間に1本。路線距離が6.8kmと短いこともあり、所要14分と乗車時間も短い。

↑田川後藤寺行きの下り列車。写真のように水田と民家が点在する風景が連なる

 

金田駅の先、伊田線の複線に加え糸田線用の線路が進行方向右手に延びている。1kmほど3本の線路が並んで走った後、東金田踏切の先で、糸田線は進行方向右手に分岐、次の豊前大熊駅を目指す。この駅は、前回紹介した田川伊田駅と同じく「MrMax」というディスカウントストアがネーミングライツを取得していて、その名が駅名標に記されている。糸田線の駅は単線ということもあり、ホーム1つの小さな駅が大半だ。

 

糸田線ではこの豊前大熊駅から松山駅、糸田駅が糸田町内の駅となる。路線名は、この土地名に由来しているわけだ。車窓風景に変化は少なく、豊前大熊駅から糸田駅の先までは県道420号線と遠賀川の支流、中元寺川を進行方向右に見て列車は進む。

↑全線複線の伊田線(左)に並ぶ糸田線の線路(一番右)。東金田踏切の先で、糸田線の線路が右に分岐している

 

糸田町の玄関口でもある糸田駅。1897(明治30)年10月20日の路線の開業時は宮床駅(みやとこえき)という名前だった。この糸田線、短いながら路線の開業から、紆余曲折の歴史が隠されている。開業させた豊州鉄道は後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)と宮床駅間を結ぶ路線に加えて、宮床駅の0.5km先に豊国駅(ほうこくえき)という貨物駅を造った。この豊国駅は石炭を積むための駅だった。

 

糸田駅(旧・宮床駅)の北側は豊州鉄道とは異なる会社が線路を敷設した。金田と宮床を結んだ路線で金宮鉄道と名付けられた鉄道会社だった。この会社は後に産業セメント鉄道という名の会社になる。そして現在の糸田駅から北0.7km地点に糸田駅(後に廃駅)を設けた。この産業セメント鉄道は1943(昭和18)年に買収され国有化された。

 

要は6.8kmの短い路線にも関わらず、開業には2つの会社が関わり、太平洋戦争中に国鉄の糸田線に。産業セメント鉄道が造った糸田駅は、国有化された時に宮床駅に吸収され、旧宮床駅が糸田駅となった。

 

【田川・糸田線の旅⑨】田川後藤寺駅では古い跨線橋が気になる

糸田駅の南で糸田町から田川市へ入る。列車は中元寺川から離れ大薮駅(おおやぶえき)へ。同駅は路線開業時、貨物駅として誕生したが、一度廃止された後の1990(平成2)年に現在の駅が再開している。糸田線にはこのようにいろいろな経緯を持つ駅が多い。こちらも「MrMax大藪」というネーミングライツされた駅名が付く。

 

大薮駅を過ぎると緑が多くなり、左手から線路が近づいてくる。JR日田彦山線の線路で、田川伊田駅方面からの列車がこの線路を走る。さらに右手からJR後藤寺線の線路が近づいてきて、田川後藤寺駅の構内に入る。

↑田川後藤寺駅の駅舎。西側のみに駅入口がある。駅構内は広くJR九州のキハ40系などの気動車が多く留置されている

 

糸田線の列車は田川後藤寺駅の2番線に到着する。同駅のホームは4番線まで並んでいるが、後藤寺線は0番線と1番線を利用。一方、日田彦山線は1番、3・4番線のホームを利用する。2番線は糸田線単独のホームで、跨線橋を渡って他線への乗換えが必要となる。

↑日田彦山線の列車が停る1番線ホーム。糸田線(左)は2番線ホームからの発着となる

 

駅舎の改札はJR九州の管理となっているが、糸田線の乗車券の購入もできる。駅舎は1997(平成9)年に建てかえられたが、駅構内には骨組みにレールを使用した木製の跨線橋が残る。使われたレールは最も古いもので1900(明治33)年、新しいもので1911(明治44)年という刻印がある。記録では1916(大正5)年に駅舎改築とあることから、この時か、また昭和初期にかけて架けられた跨線橋が残っていることになる(糸田線の階段部分は後に付け加えられたもの)。

 

田川後藤寺駅を訪れ、田川線、糸田線が設けられた同時代の資材が、こうして跨線橋として残されていることが分かった。

↑田川後藤寺駅のレトロな跨線橋。骨組みのレールには1900年代の序盤に造られたアメリカ製のものなども含まれる

 

【田川・糸田線の旅⑩】もう1本、忘れてはいけない路線がある

平成筑豊鉄道の紹介で、もう1本、忘れてはいけない路線がある。それは福岡県北九州市を走る門司港レトロ観光線である。

 

JR門司港駅に隣接する九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅間2.1kmを結ぶ観光路線で、かわいらしいトロッコ列車が走る。運営方式は上下分離方式で、北九州市が第三種鉄道事業者で路線を所有管理、平成筑豊鉄道は第二種鉄道事業者として、車両を保有し、運行を行っている。

↑平成筑豊鉄道が運行する「潮風号」。終点の関門海峡めかり駅では、海峡を行き来する大型船が間近に見え楽しめる

 

同路線は元々、鹿児島本線の貨物支線であり、後に田野浦公共臨港鉄道の路線として貨物列車が走っていた。そこをディーゼル機関車2両にトロッコ客車2両を連結した観光列車「潮風号」が時速15kmというのんびりしたスピードで走る(冬期は運休)。

 

同列車の名称は「北九州銀行レトロライン潮風号」。こちらの路線もネーミングライツによる企業の名前を付けている。厳しさが増す鉄道事業、平成筑豊鉄道は駅名だけでなく、こうした路線名にまで企業の名前を入れるなど、涙ぐましい営業努力を続けているわけである。