おもしろローカル線の旅110〜〜JR東日本・水戸線(栃木県・茨城県)〜〜
あまり目立たないローカル線でも、実際に乗ってみると予想外の発見があるもの。関東平野の北東部を走る水戸線はそんなローカル線の1本だ。
実は水戸線、名前に水戸という地名が入るものの水戸市は走っていない。なぜなのだろう? そんな疑問から水戸線の旅が始まった。
*2017(平成29)年8月13日〜2023(令和5)年2月12日の現地取材でまとめました。一部写真は現在と異なっています。
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【水戸線の旅①】常磐線よりも先に開業した水戸線の歴史
まず、水戸線の概要や歴史から見ていこう。
路線と距離 | JR東日本・水戸線:小山駅(おやまえき)〜友部駅(ともべえき)間50.2km、全線電化単線 |
開業 | 水戸鉄道が1889(明治22)年1月16日、小山駅〜水戸駅間を開業、友部駅は1895(明治28)年7月1日に開設 |
駅数 | 16駅(起終点駅を含む) |
水戸線の歴史は古く、今年で開業134年を迎えた。最初は水戸鉄道という私鉄の会社が、起点となる小山駅から水戸駅まで路線を開業。ところが、水戸鉄道として走ったのはわずか3年ばかりと短く、1892(明治25)年には日本鉄道に譲渡され、水戸線という路線名になった。
さらに日本鉄道が常磐線の一部区間を開業、1895(明治28)年に水戸線と接続する地点に友部駅を開設した。友部駅が開設された翌年の1896(明治29)年には常磐線の田端駅と土浦駅間の路線が開業し、東京と水戸が鉄道で直接結ばれるようになった。
明治期に北関東の鉄道網は目まぐるしく変化していく。常磐線が開業してから10年後の1906(明治39)年に日本鉄道は官設鉄道に編入。国営化された後に友部駅〜水戸駅間は常磐線に編入され、残された小山駅〜友部駅間のみ、水戸線という名称が残された。その後、名称の変更が行われることはなく、水戸市は通らないのに水戸線という路線名が今もそのまま使われ続けている。
1987(昭和62)年に国鉄民営化でJR東日本の一路線となったが、その時も長らく親しまれてきた路線名ということもあり、改称などの話は持ちが上がることもなかったそうだ。
【水戸線の旅②】E531系の1形式のみが「顔」として運行
次に水戸線を走る車両を見ておこう。現在は臨時列車や甲種輸送列車などを除き1形式のみが走っている。
◇E531系電車
E531系はJR東日本の交直流電車で常磐線のほか水戸線、東北本線の一部区間で運用されている。定期運用が開始されたのは2015(平成27)年2月1日から。常磐線での運用はグリーン車を交えた10両編成が主力だが、水戸線では併結用に造られた付属5両編成の車両が単独で使われている。
ちなみに1編成(K451編成)のみ、かつて交流区間を走っていた401系の塗装をイメージした〝赤電塗装〟のラッピング車となっている。なかなか出会えないものの、この車両を見られることが旅の楽しみの一つになっている。
E531系導入まで水戸線では長らくE501系および415系が走っていたが、415系は引退、E501系は水戸線内でたびたび故障が起きたこともあり、今は常磐線での運用に限られるようになっている。
【水戸線の旅③】小山駅を出発してすぐの気になる分岐跡は?
ここからは水戸線の旅を進めたい。起点となる小山駅は東北本線の接続駅で、水戸線は15・16番線ホームから発車する。朝夕は30分間隔、昼前後の時間帯も1時間おきとローカル線としては列車本数が多めだ。昼間の時間帯は大半が友部駅止まりだが、朝夕は水戸駅や、その先の勝田駅へ走る列車もある。
小山駅のホームを離れた水戸線の列車は、すぐに左にカーブして次の小田林駅(おたばやしえき)へ向かう。乗車していると気づきにくいが、進行方向右側からカーブして水戸線に近づいてくる廃線跡がある。今は空き地となっているのだが、並行する道路が緩やかにカーブしていて、いかにもかつて列車が走っていた雰囲気が残る。
この廃線跡は、水戸線と東北本線を結んでいた短絡線の跡で、東北本線の間々田駅(ままだえき)と水戸線を直接結ぶために1950(昭和25)年に敷設された。入線すると折り返す必要があった小山駅を通らず、東北本線から直接、貨物列車が走ることができた便利な路線だったが、1980年代に貨物列車の運用が消滅したため、2006(平成18)年に線路設備も撤去されて今に至る。
【水戸線の旅④】気になるデッドセクション箇所の走り
水戸線は16ある駅のうち、15駅が茨城県内の駅で、小山駅1駅のみが栃木県の駅だ。小山駅が栃木県の県東南部の端にあるという事情もあるが、2県をまたいで走る路線は数多くあるものの、このように1つの県で停車駅が1駅のみという路線も珍しい。この県境部に鉄道好きが気になるポイントがある。
小山駅を発車すると次の小田林駅との間、県境のやや手前で列車の運転士は運転台で一つの切り替え作業を行う。小山駅は直流電化区間なのだが、次の小田林駅への途中で交流電化区間に切り替わる。この切り替え作業を行うのである。
以前、筆者が水戸線の415系に乗車した時には、この区間で車内の照明が消え、モーター音が途絶えて一瞬静かになるということがあり驚いたものだった。現在走っているE531系の車内照明は消えることはなく、走行音もほぼ変わることはない。では、外から見ても車体に変化はないのか? 興味を持ったので、直流から交流へ変更を行う「デッドセクション」区間を訪れてみた。
上部に張られた架線にはいろいろな装置が付けられていて、ここで直流と交流が変わることが分かる。また架線ポールに「交直切替」の看板が付けられ、運転士にデッドセクション区間であることを伝えている。
小山駅から向かってきたE531系を見ると、ほぼスピードを落とさず通過していった。今では技術力も高まり、運転士が切替えスイッチの操作を行えば、問題なく通過できてしまう。通常の走行と異なる点といえば、車両先頭の案内表示用のLED表示器が消灯しているぐらいだった。
ところで、なぜ直流電化、交流電化の切り替え区間が県境付近にあるのか。その理由は茨城県石岡市に「気象庁地磁気観測所」があるからだ。地磁気観測所は地球の磁気や地球電気の観測を行っている。この観測地点から半径30km圏内で電化をする場合、電気事業法の省令で観測に影響が出ない方式での電化が義務づけられている。従来の直流電化は、漏えい電流が遠くまで伝わる特徴があり、そのため観測に影響が出にくい交流で電化されているのだ。
「気象庁地磁気観測所」の半径30km圏内に路線がある水戸線では小山駅〜小田林駅間で、また友部駅で合流する常磐線も取手駅〜藤代駅(ふじしろえき)間でデッドセクションを設けている。
【水戸線の旅⑤】川島駅の構内には広大な貨物線跡が残る
小田林駅の次の結城駅は、結城つむぎの生産地でもある結城市の表玄関となるのだが、今回は下車せずに先を急ぐ。東結城駅〜川島駅間で550mの長さを持つ鬼怒川橋梁を渡った。
この鬼怒川橋梁を渡った地点から川島駅の構内に向けて、側線が設けられていた。今は一部が保線用に利用されているが、その先にあたる川島駅の北側の広々した空き地には今も錆びた線路が一部残り、側線の跡であることがよく分かる。
現在、川島駅の北側にはNC工基の工場がある。NC工基は土木、建築工事に関する各種基礎工事を施工する企業で、駅から工場内を望むと資材などを運ぶ大型クレーン類が良く見える。さらに、駅の北西側にはNC東日本コンクリート工業川島第四工場(旧太平洋セメント川島サービスステーション)があり専用線が設けられていた。
今もこうした工場へ向けての専用線の跡地が残っている。かつては電気機関車などによる貨車の入換え作業が行われていたわけだ。筆者は、こうした引き込み線跡に興味があり、この場所には複数回訪れていたが、駅の北西側の工場内に伸びていた専用線の跡は、つい最近ソーラー発電所に再整備された。徐々に川島駅周辺の廃線跡も消えていくことになるのだろう。
ちなみに、小山駅近くの東北本線への短絡線は、この川島駅と秩父鉄道の武州原谷駅(ぶしゅうはらやえき)という貨物専用駅との間を結んでいた貨物列車運行用に使われたものだった。1997(平成9)年3月22日にこの運行は終了してしまい、川島駅付近の専用線も荒れるままとなっている。貨物列車の運行も永遠に続くわけではなく、このように企業の活動に左右されるわけだ。
【水戸線の旅⑥】気になる関東鉄道・真岡鐵道の接続駅、下館駅
好天の日、川島駅付近から先は進行方向の右手に注目したい。関東平野の広大な田園畑地が広がるなか、筑波山が見えてくる。
そして列車は下館駅(しもだてえき)へ到着する。この駅は関東鉄道常総線、真岡鐵道の乗換駅となる。真岡鐵道のSLは牽引機のC12形が検査を終えたばかりで3月4日(土曜日)から運行されている。今年も行楽シーズンには多くの乗客で賑わいそうだ。さらにGW期間中には益子陶器市が開かれ、水戸線、真岡鐵道の利用者の増加が見込まれている。
下館駅は筆者もよく訪れるが、そのたびに賑わいが薄れていくように感じる。駅前の元ショッピングセンターは市役所となり、昼間に開く食事処も少なく、駅のコンビニも営業日と営業時間が限られている。このように駅の周辺が寂しくなるのは、地方都市では鉄道よりも車の利用者が圧倒的に多くなったせいなのだろう。
下館駅の次の新治駅(にいはりえき)にかけて、もっとも筑波山の姿が楽しめる区間となる。標高877mとそれほど高い山ではないものの、関東平野の中にそびえ立つ山容は、昔から「西の富士、東の筑波」と称されてきた。
筑波山には男体山と女体山の2つの峰がある。以前に本稿で日光線の紹介したときに男体山、女体山が対になる山と記述したが、この筑波山も同じ名称の峰があり、古くから信仰の山として尊ばれてきたわけだ。
水戸線側から望むと単独峰に見えるのだが、実は標高が一番高い筑波山をピークに300mから700mの複数の山々が東西に連なっていて、この峰々を筑波連山、筑波連峰と呼ぶ。
【水戸線の旅⑦】岩瀬駅から発着した筑波線の跡は?
現在、水戸線に接続する鉄道路線は下館駅の関東鉄道常総線と真岡鐵道の2路線しかないが、かつては貨物輸送用、また観光用に複数の路線が設けられていて、それらの駅も接続駅として賑わっていた。
下館駅から3つめの岩瀬駅もそうした駅の一つだ。この岩瀬駅からはかつて、筑波鉄道筑波線が常磐線の土浦駅まで走っていた。筑波山観光の利用者が多く、最盛期の1960年代には上野駅などから列車が筑波駅まで直接乗り入れた。モータリゼーションの高まりの中で、利用者の減少に歯止めがかからず、筑波鉄道筑波線は1987(昭和62)年4月1日に廃線となっている。
ウェブサイトでは美しい筑波山麓の田園地帯をディーゼルカーが走る当時の写真を見ることができるが、長閑な趣を持つローカル線だったようだ。
現在、岩瀬駅から伸びていた筑波鉄道の廃線跡は、サイクリングロード「つくばりんりんロード」として整備されている。岩瀬駅の南側には駐車場が整備され、サイクリングのベースとして利用する人も多い。サイクリングロードの終点、土浦までは40kmという案内板も設けられている。途中、一里塚のようにに休憩所が複数設けられているので、のんびりとペダルをこぐのに最適なコースとなっている。
【水戸線の旅⑧】稲田石の産地、稲田駅で降りてみた
小山駅から岩瀬駅まで田畑を左右に見て平坦な地形を走ってきた水戸線だが、羽黒駅を過ぎると一転して丘陵部を走り始める。そんな風景を眺めつつ稲田駅に到着した。
地元・笠間市稲田は稲田石と呼ばれる良質の御影石の産地で、切り出した砕石の輸送のため駅が開設され、また駅と砕石場を結ぶ稲田人車軌道という鉄道も敷設された。駅は水戸鉄道開業後の1898(明治31)年に造られており、地元の石材業者が中心になって、用地を提供するなど駅の開設に協力したそうだ。
地元が稲田石の産地であることにちなみ駅前には立派な石燈籠が立ち、「石の百年館」(入館無料)という展示館が設けられている。
「石の百年館」に入り、展示内容を見て驚かされた。稲田石は地元笠間市で採掘される花崗岩だが、白御影と呼ばれその白さが特徴になっている。明治神宮など様々な施設に使われ、1914(大正3)年に建造された東京駅丸の内駅舎にも使われていた。窓周り、柱頭の飾りに稲田石の白い岩肌が活かされたそうだ。
さらに東京市電の敷石にも、材質に優れ、採掘量が安定した稲田石が大量に使われた。すでに東京都内の路面電車の路線は多くが廃止となったものの、今も道路工事のために旧路線を掘ると、敷き詰められた稲田石が大量に見つかるそうだ。
【水戸線の旅⑨】常磐線と合流、そして終着友部駅へ
起点の小山駅から乗車1時間弱、進行方向右手から常磐線が近づいてくると、その先が水戸線終点の友部駅となる。水戸線の列車は3〜5番線に到着し、一部列車はそのまま水戸駅または勝田駅へ向かう。
友部駅は2007(平成19)年にリニューアルされた橋上駅舎で、南口と北口を結ぶ自由通路が設けられている。
友部駅は地元笠間市の常磐線側の玄関口にあたるものの、水戸線の開業時には駅がなかった。笠間の市街地は他にあったからで、水戸線笠間駅の北側が笠間市の中心部にあたる。
笠間は日本三大稲荷にあたる笠間稲荷神社の鳥居前町であり、笠間城が築かれ笠間藩の城下町として栄えた。春秋に行われる陶器市で賑わう町でもある。
今回は訪れそこねたものの、次は笠間駅で下車してゆっくりと古い城下町巡りをしてみたいと思った。
【水戸線の旅⑩】最近気になる特急の模様替え車両
さて友部駅で接続する常磐線だが、停車する特急「ひたち」「ときわ」の一部編成が模様替えされ、鉄道ファンにとっては気になる列車となっている。水戸線を走る車両ではないものの、水戸線を訪れる際に利用してはいかがだろうか。
以前、常磐線を走っていたE653系は、各編成で色が異なり鮮やかな印象を放っていた。現在走るE657系の塗装は1パターンのみだったが、かつての「フレッシュひたち」をイメージした特別塗装車が走るようになっている。
茨城デスティネーションキャンペーンに合わせての塗装変更で、まずはK17編成がグリーンと白の「グリーンレイク(緑の湖)塗装」に。さらにK12編成が「スカーレットブロッサム(紅梅色)塗装」に変更されている。合計で5編成が模様替えされる予定で、水戸線を旅する時の、もう一つの楽しみになりそうだ。