「私は国のために走っている」
決意を持った力強い眼差しで語るのは、陸上競技で東京オリンピック・パラリンピックの出場を目指す、南スーダンのグエム・アブラハム選手。母国を代表して出場するオリンピック・パラリンピックの舞台ですから、“国のために走るのは当たり前のことなのでは?”と考える人がいるかもしれません。しかし、アブラハム選手が語る“国のため”には、私たち日本人が考えるよりもはるかに重い意味がありました。
南スーダンの選手団が来日したのは2019年11月末。国際協力機構(JICA)より南スーダンを紹介されたことをきっかけに、群馬県前橋市が南スーダンの選手団の受け入れを決定し、東京オリンピック・パラリンピック大会に向けた長期事前合宿が始まりました。しかし、世界的な新型コロナウイルス感染拡大の影響で大会の延期が決定。今後1年間をどのように過ごすかの協議がなされた中で、選手たちは日本に残ることを希望し、前橋市はその気持ちを受け取り、2021年の大会終了までの合宿継続を決定しました。大会の開催がいまだ先行き不透明な中、彼らはどのような心境で事前合宿に臨んでいるのでしょうか?
今回、彼ら南スーダンの選手たちの想いに耳を傾けるのは、現在、陸上界のみならず、幅広いスポーツ分野から注目を集める元オリンピアンであり、陸上コーチの横田真人さん。昨年12月に開催された、日本陸上競技選手権大会の長距離種目・女子10000mで18年ぶりとなる日本新記録で見事優勝を果たした新谷仁美選手を、技術面・精神面で支えたそのコーチングに関心が高まっています。選手の個性を活かしながらの練習メニュー作成や、個人種目ながらチームとして一丸となって競技に挑むという横田コーチのマインドに共感するスポーツファンも多いのではないでしょうか。
「スポーツはプロフェッショナルだけのものではない」「持続可能な文化としてのスポーツのあり方を模索したい」と、勝ち負けだけにとらわれないスポーツとの向き合い方を模索し続けている横田さんだからこそ聞き出せる、南スーダンの選手たちの「国のために走る意味」に迫ります。
インタビュアー
横田真人さん
男子800m元日本代表記録保持者、2012年ロンドン五輪男子800メートル代表。日本選手権では6回の優勝経験を持つ。2016年現役引退。その後、2017年よりNIKE TOKYO TCコーチに就任。2020年にTWOLAPS TRACK CLUBを立ち上げ、若手選手へのコーチングを行う。選手一人一人に合わせたオーダーコーチングがモットー。活躍はスポーツ界だけにとどまらず、現役時代には米国公認会計士の資格を取得するなど様々なビジネスを手掛ける経営者としての側面を持つ。
勝ち負けだけが全てじゃない。スポーツの価値とオリンピック・パラリンピックの意義
横田真人さん(以下、横田):お二人にとって、オリンピック・パラリンピックはどういう意味を持つ大会なのでしょうか?
グエム・アブラハム選手(以下、アブラハム):オリンピック・パラリンピックは重要な意味を持つ大会です。もちろん、自分の実力を披露する場としての意味もありますが、私たちにとっては、“世界を知る”良い機会でもあります。世界各国からアスリートが集まることで、違う人種、文化的背景を持つ人々と触れ合うことができますからね。
クティヤン・マイケル選手(以下、マイケル):様々な文化に触れることで、自国・他国の良い面、悪い面が見えてくるはずです。それを自ら体験することは非常に貴重な経験だと思います。パフォーマンスの面でもやはりオリンピック・パラリンピックは特別です。自分たちが良い結果を出せれば、国に帰ってからの生活の質を変えることにも繋がりますからね。それも踏まえた上で国を代表する立場になって、胸を張って戦いたいと思います。
アブラハム:メダルを取ったり、良い記録を残したりすることはもちろん大切です。しかし、私たちにとってオリンピック・パラリンピックに出場することは、勝ち負け以上の価値があります。南スーダンには様々な部族の人々が住んでいて、さまざまな要因により内戦が続いています。でも、私たちが“南スーダン人”としてオリンピック・パラリンピックに出場すれば、部族の垣根を超えて全員が私たちを応援してくれると思います。南スーダンという国が一つになるために、そしてそれが平和につながるように、私たちは国のために走っているんです。
「前橋市の人たちには感謝しかない」。1年の延期が強めた南スーダン選手団と市民との絆
横田:前橋でのキャンプも1年以上が経過しましたが、日本には慣れましたか? 来日直後の日本に対する印象と、現在の日本の印象は変わったでしょうか?
マイケル:来日前は、日本に対するイメージが全く湧かなかったのですが、実際に来日して、本当に素晴らしい国だなと感じました。私たちの活動に対して、コーチを含め、たくさんの人々がサポートしてくれています。
アブラハム:特に日常的に感じるのが、市民の方々からの愛情です。子どもたちを含め、交流会などで触れ合う人々は、私たちの言葉に真摯に耳を傾けてくれますし、笑顔で迎え入れてくれます。街で出会った際も気軽に挨拶を交わしてくれます。本当に皆さんには感謝の想いしかありません。
横田:新型コロナウイルスの影響で大会が1年延期されました。アスリートにとって1年の延期は、コンディションを整える難しさもあると思います。お二人にとっては異国の地での再調整という特殊な背景もありますが、この数ヶ月どのように過ごしてきましたか。
アブラハム:もちろん、オリンピック・パラリンピックの延期を知らされた時には大変大きなショックを受けました。しかし、この延期は私達にとってチャンスだと考えました。あと1年間、日本でトレーニングを積めば、さらに高度な練習に取り組むこともできるし、記録を伸ばすこともできます。ですから、選手団のメンバーは全員、前橋でのキャンプ延長を望んでいました。
マイケル:実際、もし帰国したら練習の場所や時間の確保が難しいのが南スーダンの現状です。また、日々の食事を確保するのも容易ではありません。もしかしたら、昔のように1日1食の生活に戻ってしまうかもしれないのです。だからこそ、私たちとしては延期をポジティブにとらえて、大会に向け、日本でコンディションを整えていきたいと考えています。
アブラハム:家族や友達に会いたいという気持ちはありますが、生活面や環境面に関しても、私たちが快適に過ごせるよう皆さんが全面的にサポートしてくれているので、難しさを感じたことはほとんどありません。前橋市の担当である内田さんともジョークを言い合える仲になっていますし、今では異国の地という感覚はなく、ホームタウンのような居心地の良さを感じています。
独立と半世紀にもおよぶ内戦。南スーダンの現状
南スーダン共和国は、半世紀にも及ぶ内戦を経て、2011年にアフリカ大陸54番目の国家としてスーダンより独立を果たした国。独立したとはいえ、その後も国内では内戦が絶えませんでした。
2013年末に始まった政府軍と反政府軍の争いでは、2015年・2018年の調停及び2020年2月の暫定政府設立に至るまでに約40万人の死者と、400万人以上の難民・避難民が発生したとされています。アブラハム選手が語るように、スポーツを練習する環境を整えることはおろか、日々の食事を確保することも困難な状況が続いているのだそう。
このような内戦が続く理由として、南スーダンが大小合わせ約60もの民族からなる多民族国家である、という特殊な事情が挙げられます。様々な価値観や生活様式、宗教を持った民族が1つの国で生活を共にするというのは、私たち日本人が想像するよりも、はるかに困難なことなのかもしれません。
東京オリンピック・パラリンピック以降の未来に何を見据えるのか? “文化としてのスポーツ”を伝えるために
横田:東京オリンピック・パラリンピックに向けて、全力で準備を行っている真っ只中だと思いますが、大会後についてお二人はどのように考えていますか? 今はまた陸上にどっぷりはまっていますが、私は引退後のセカンドライフを考えてアメリカで公認会計士の資格を取得しました。日本と南スーダンとでは思い描くセカンドライフは異なると思いますが、お二人が考える未来への展望を聞いてみたいです。
マイケル:私は大会後もトレーニングを続けて、何らかの形で競技に携わっていきたいと考えています。将来的には、パラリンピックを目指すアスリートたちに適切な指導ができるコーチになりたいです。南スーダンは、障がい者に対する指導環境が整っているとはいえない状態です。だからこそ、自分自身が日本で学んだこと、オリンピック・パラリンピックの舞台に立ったからこそ伝えられる経験を、若い世代に伝えていきたいです。
アブラハム:オリンピック・パラリンピックは目標ではありますが、ゴールではありません。幸いにも、私はまだ若い年齢でこのようなチャンスをいただけていますから、別の大会、そしてまた次のオリンピックへ向けて、記録を伸ばしていきたいと思っています。一方で、母国に住んでいる家族のことはいつも気にかけています。競技を続ける上でも、まずは一人で支えてくれている母親のためにも、家を建てて生活を安定させたいという希望もありますね。その後に、もしチャンスをいただけるのであれば、ぜひ日本に戻ってきて競技を行いたいと思います。
横田さん:お二人の練習風景を見学させていただいて、オリンピック・パラリンピックで活躍する姿を見るのがますます楽しみになりました! まだまだ厳しい国内情勢が続く南スーダンでは、スポーツに対する価値が国や国民に浸透していないのではないかと思います。オリンピック・パラリンピックが終わって、お二人が自国に帰った後、どのようにスポーツの価値を発信していこうと考えているのか、ぜひ教えて欲しいです。
マイケル:一般的にアフリカの人たちは、物事を「聞くこと」ではなく、「自身の目で見ること」で信じる傾向があります。だから、自分たちをスポーツで成功した例として国民に知ってもらうことが大切だと思います。例えば、自分が大きな家を建てることで、それを見た子どもたちや親たちが「スポーツでの成功が生活の豊かさに繋がる」ということを認識すると思うんです。そういった意味でも、まずはオリンピック・パラリンピックの舞台で自分が出来得る限りのいいパフォーマンスを披露したいですね。
国民結束の日(全国スポーツ大会)が大きな転機に。スポーツが切り開く国の未来
アブラハム:母国に帰れば、私たちが日本で経験したことを積極的に発信していくつもりです。おそらく、僕たちのストーリーに対して南スーダンの子どもたちもきっと興味を持ってくれると思います。しかしながら南スーダンにはまだスポーツで羽ばたくチャンスは少ない。国の情勢を考えても、スポーツだけに取り組むことができる人はほんの一握りですし、能力や才能がある子どもたちがいるとしても、それを披露する場所や機会がないのが実態です。
横田:南スーダンがいまだスポーツが日常的に楽しめる情勢ではないことは、聞いています。そんな中でアブラハム選手はどのようにしてオリンピック・パラリンピック代表を目指すまでのチャンスを得たのでしょうか。
アブラハム: JICAの協力で始まった『*国民結束の日(全国スポーツ大会)』は、1つの大きなきっかけとなりました。あのイベントがなければ、もしかしたら私たちはオリンピック・パラリンピックに出場するチャンスを得られなかったかもしれません。私にとってこの経験が大きかったからこそ、帰国後、親や子どもたちに伝えるのはもちろん、スポーツができる環境づくりなどに投資をしてもらえるよう、政府にも直接訴えかけないといけないと思うんです。そうすることで、才能ある子どもたちが、自身の実力を披露する機会が得られると思いますし、国としてのスポーツの発展につながるのではないかと考えています。
*「国民を1つに結束させる」という目標を掲げ、2016年よりJICA協力のもと開催されているスポーツイベント。
横田:政府に働きかけることによってスポーツに対する環境を整える。そして、スポーツで成功した人を目撃することで、そこに憧れを持った子どもたちがスポーツに取り組む。2人の視点はどちらも大切ですよね。母国を離れ、2年近く日本での生活を送ったこと、そしてオリンピック・パラリンピックへ向けた挑戦を経験したからこそ体験できたスポーツの可能性を、ぜひ母国に帰って広めてほしいと思います。
前橋市担当者が語る市と市民のサポート
「選手たちの強い想いが、人々の心を掴んでいるのだと感じます」
東京オリンピック・パラリンピックの延期が決まった際、前橋市でも様々な議論が行われました。選手団全員が大会終了までのキャンプ継続を希望したことから、支援を決意。資金の工面などの問題が予想されましたが、多額の寄付金が集まり、支援が継続されています。
「南スーダン選手団のキャンプで発生する費用は、ふるさと納税などの寄付金で賄われています。コロナ禍ということで、キャンプ継続に対して様々な意見があることも事実ですが、多額の寄付金をいただけているということからも、前橋市民を含め、全国の方々がこの活動を肯定的に捉えてくださっていると考えています」と内田さん。選手たちの競技への想いは、確実に地域、そして日本の人々の心を掴んでいると語ります。
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