日本酒好きにとっては甲子園のような店
大塚駅の北口を出て都電荒川線の線路を横断し、ゆるやかな坂を上った途中にあるのが「銘酒処 串駒」(以降は串駒)だ。酒の空きケースが積まれていなければ、ただの民家と思い、見逃してしまうような店構え。だが、これこそが酒好きを魅了してやまない名店なのだ。
一体どんな店なのか。聞くところによると、現在の銘酒居酒屋の源流となった店だという。また、いち早く日本酒専用の冷蔵庫を備え、生酒の魅力を伝えた店だという。名酒として名高い「十四代」を世に広めた店だという。日本酒の名店と呼ばれる店のオーナーを数多く輩出した店だという。東京を代表する居酒屋に違いはなく、現在に続く日本酒ブームの礎となった場所だ。筆者を含め、日本酒を愛する者にとって、高校球児における甲子園球場と大差ない。
取材の意を告げると、私とカメラマンはすぐに2階へ通された。階段を上った先にあったのは、実に収まりのいい広さの空間だ。このときに感じた既視感は何だろう。ここにはなんとも親密で、懐かしく、それでいてワクワクするような空気が流れている。あえて表現するとしたら、オトナの秘密基地といったところだろうか。
根っからのサービスマンだった“前オーナー”、大林 禎さん
二階で私とカメラマンを迎えてくれたのが、現在のオーナー、大林雪江さん。わざわざ「現在のオーナー」と書いた理由は、雪江さんの夫であり、前オーナーの大林 禎(おおばやし・てい)さんが亡くなってまだ間もないから(2014年の9月に他界)。そして、前オーナーの存在は、串駒を語る上で極めて重要だからだ。
雪江さんが語る内容も、期せずして前オーナー、禎さんの話になっていく。
「生前は『ドラえもんのポケットを持っていたい』と語っていた通り、大林(禎さんのこと)は根っからのサービスマンでしたね。人にちょっとした驚きを与えるのが楽しくてしょうがないという人でした」
雪江さんはさらに語る。
「25~34年前でしょうか。『あそこの酒がうまい』と聞けば、うわさを聞いた次の日の朝には電車に飛び乗って、その蔵元に行っていました。蔵元で生酒を気に入ったときは、運ぶのが大変でしたよ。生酒は、冷やして運ばないと発酵が進み、振動などでビンが壊れるから、当時は蔵元でしか飲めない酒だったんです。それを蔵元で詰めてもらって、持ち帰ったはいいものの、ビンの半分が吹っ飛んだこともありました。
それでも氷を買って詰めたりして何とか運んできて。そうやって新しい酒を仕入れて店に帰ると、『飲みにおいでよ!』と、あちこちに電話をかけていたものです」。そう語る雪江さんは、懐かしさと寂しさが入り混じった何ともいえない表情を浮かべていた。
歴史的な酒との邂逅で店主が交わした約束
ここで少し大林 禎さんとお店の略歴を話そう。
大林 禎さんの出身は熊本県。18歳で上京し、25歳で串駒を開店した。串揚げと馬刺し料理がうまい店にしたいとの思いから「串駒」と命名したという。その後、地酒の発掘に力を注ぐ池袋・「甲州屋」の店主、児玉光久氏との出会いにより、日本酒の魅力に開眼する。
いち早く日本酒専用の冷蔵庫を設置し、生酒を置くようになったのも、児玉氏から「お前の店には冷蔵庫がないから、ウチの酒は卸せない」と言われたことがきっかけだ。
冷蔵庫の購入を思い立った禎さんは、区からの融資を受けて手製の冷蔵庫を据えつけ、少しずつ扱う銘柄を増やしていったという。「甲州屋」の児玉氏が43歳という若さで倒れたのちも、彼の遺志を受け継ぐように地酒の発掘に精力を傾けた。
こうした背景があり、出会うべくして出会ったのが、山形県・高木酒造の「十四代」である。十四代とは、ひとことでいえば、日本酒の歴史に残るスター酒だ。
この銘柄が誕生したのは1994年。従来は、水のように軽い味の「淡麗辛口」がもてはやされていたが、当時20代の半ばだった高木顕統(たかぎ・あきつな)氏が、淡麗辛口とは一線を画す酒を醸して話題を呼んだ。
豊かな味わいと華やかな香りを兼備したその酒は「芳醇旨口」と呼ばれ、その後の日本酒のスタンダードとなっていく。以後、十四代は国内で一、二を争う入手困難酒となり、いまもなお日本酒ファンの憧れであり続けている。
カリスマ的な人気を誇る十四代だが、前述の通り、そのブレイクには串駒が大きく関わっている。キーマンは、やはり禎さんだ。雪江さんの話を聞いてみよう。
「おそらく、戦略的なことがあったのでしょうね。駆け出し頃の顕統さんが、『飲んで下さい!』とウチに十四代を持ち込んできたんです。それを大林が『これはうまい!』と気に入りまして。当時、『酒林』という飲食店の勉強会があったのですが、すぐにそのメンバーを招集して、利き酒をしたんだそうです。すると、メンバー全員が『欲しい』という結果に。以後は、『酒林』のメンバーが十四代を仕入れたり、顕統さんのために酒屋を紹介したりしたんです。また、このとき大林が偉かったのは、『価格は考えますから、ぜひ置いてください!』という顕統さんに対し、『価格はよそと同じでいい。安定供給をしてくれ』と言い切ったこと。そして、いまでもその約束を守り通してくれている蔵元もすごいです。感謝するしかありませんね」
「串駒には商品を安定的に供給する」という約束は、十四代が希少な酒となったいま、とてつもなく大きな価値を持つこととなった。ちなみに、雪江さんが記憶する、十四代の名が初めて世に出た瞬間は、フジテレビの夕方の報道番組でのひとコマだ。インタビューに応じた禎さんが十四代を評し、「時代が生んだ酒です!」と語ったことだという。なるほど、あの風貌のご主人が、並の酒ではないと力強く言い切ったわけだから、それが視聴者にどれほどのインパクトを与えたか、想像に難くない。
幸福なスパイラルを生む、ただものではない料理たち
さて、次に串駒の料理に目を向けてみよう。まず驚かされるのが、お通しの充実ぶりだ。取材時には旬の食材を使った碗と、本格的な肴が盛られた皿が供された。これは前店主の「お客が席に着いたら、季節のものがすぐ出てくるように」との配慮から。今や日本酒を出す店では、凝ったお通しを出すのが当たり前となっているが、この流れを作ったのも串駒といえる。
メニューを見てみよう。串揚げ 5串750円、串駒レバーパテ780円、本日のサラダ700円など、それほど高くはない価格設定だ。とはいえ、その料理はどれひとつとっても、ただものではない。たとえば、居酒屋の定番「あんきも」は、串駒だと、奈良漬けの細切りを添えて出す。合わせて食べると、奈良漬けの塩気と歯触りが絶妙なアクセントとなり、あんきものまろやかさが引き立つのだ。
「串駒手巻きコロッケ」は、ホテルオークラの和食の元総料理長と共同開発したという隠れた逸品。また、通年で味わえる名物「いしりみぞれ鍋」(一人前2300円)は、「いしる」という能登半島特産の魚醤(魚介を使った醤油)を用いたこだわりの品だ。鯉(鯉刺し850円など)や馬刺し(2000円)など、通好みのメニューも豊富に揃っている。
そのメニューを見て、また、その一部を味わうにつけ、同店の客単価(客1人当たりの平均支払い金額)が8000~1万円というのも納得がいった。つまり、お通しをはじめとする見事な料理が酒を呼び、その酒が旨くてまた料理を呼ぶ。その料理が酒を呼んで……と止まらなくなるのだ。その幸福なスパイラルを求めて、大人たちが夜な夜な1万円を握り締めて串駒を訪れる、とそういった仕組みに違いない。
日本酒好きなら串駒に足を向けて寝られない。
「モノを作る人も真剣。それを扱っているのだから、我々も執念を持ってモノを売り切らなくてはならない」。生前の禎さんはまた、こうも語っていたという。そんな思いを継承した禎さんの弟子たちが、各々の個性を生かして日本酒の店を開店するケースも多い。
たとえば、雪江さんがその行動力を評して「若い頃の大林にそっくり」と語る古賀哲郎さんは、2011年、池袋に「稲水器 あまてらす」をオープン。「而今(じこん)」「東洋美人」といった銘柄を前面に押し出し、早くも名店の仲間入りを果たした。また、串駒の姉妹店、「串駒房」出身の江澤雅俊さんは、大塚に生ハムと燗酒のマッチングを提案する「29ロティ」を出店し、酒好きの熱い注目を浴びている。
このほか、大塚の「ぐいのみ大」、巣鴨の「KUSHIKOMA井こし」など、串駒出身者が作った名店は多い(なぜ豊島区ばかりなのかは不明)。結果として、うまい日本酒が味わえる場を増やしてくれたわけで、日本酒好きとしては、この点も大いに感謝しなければならない。
多くの日本酒の普及に貢献し、有能な人材を育ててきた大林 禎さん。私はいちども会ったことはないが、きっと太陽のような存在だったに違いない。そんな大きな存在を失って、果たしてこれから大丈夫なのだろうか?
店を辞するに際し、そんな疑問が浮かんだ。答えはもちろん、わかるはずもない。謝意を述べ、扉を閉める。
ふと脇を見ると、そこには串駒という店が、自分に何度も問いかけて、得た答えがあった。
「やっぱり日本酒はうまい!」
何と純粋で、力強い言葉だろうか。この言葉を掲げる限り、この店は大丈夫に違いない。
「串駒」店舗データ
住所:東京都豊島区北大塚1-33-25
電話:03-3917-6657
営業時間:18:00~24:00(火曜~土曜/23:00L.O.)17:00~24:00(日曜/23:00L.O.)
定休日:月曜
席数:30席
日本酒は十四代、新政、而今、天明、奈良萬、王祿、飛露喜、雑賀、佐久乃花など30~40種類
※本文の商品価格はすべて税抜き
※本文は、学研ムック「LOVE 日本酒 2 」の取材(2015年2月)をもとに構成したものです