不要不急線を歩く03 〜〜 東日本の不要不急線のその後 〜〜
「不要不急の外出を控えて」という言葉を聞くと、“やれやれ”と思う方が多い今日このごろ。太平洋戦争の最中の「不要不急線」といえば、強制的に路線が休止、または廃止され、線路が外された路線を指した。
今回は、戦時下に不要不急線に指定された東日本の路線に注目した。どのような路線が不要不急線となったのか、それぞれの路線は戦後どのようになったのか追ってみた。
【不要不急線①】戦争継続のため鉄道の線路が取り外された
まずは、不要不急線とはどのような仕組みだったのかを見ていこう。
太平洋戦争前の日本は、日華事変・日中戦争など大陸での戦火が広がりつつあった。対外的には、かなり背伸びした姿を見せていた様子が分かる。上は1900年ごろの海外用の絵葉書だ。貨物列車を紹介した戦前の絵葉書は珍しいが、途方もない数の貨車を引いている。当時の非力な蒸気機関車が牽引できるわけがなく(現在もここまでの車両数を牽くことはない)、合成写真だということがすぐに分かる。
要は対外的に日本の力を誇示するため、こうした絵葉書を使って国力を底上げして見せていた傾向が窺える。そうした国の姿勢は徐々に破綻を迎える。
そして、1941(昭和16)年の暮れに、アメリカ合衆国ほか連合国との全面戦争に突入する。鉄などの資源に乏しい日本は資源不足に陥り、まず国民から金属が含まれるありとあらゆる品物を供出させた。
鉄道路線には多くの資源が使われている。そこで重要度が低いとされた路線を休止、もしくは廃止、または複線を単線化して、線路を軍事用に転用、重要度が高い幹線用に転用するべく政府から命令が出された。命令の内容は「勅令(改正陸運統制令および金属類回収令)」であり、拒否はできなかった。廃止により運行スタッフの職が奪われようと、政府はそうした現実を見ようともしなかった。
そして、全国の国鉄(当時は鉄道省)と私鉄の路線が1943(昭和18)年から1945(昭和20)年にかけて休止もしくは廃止、単線化された。その数は90路線近くにのぼる。
【不要不急線②】東京都下や名古屋に不要不急線が多い
不要不急線として指定された路線を、昭和初期に発行された鉄道路線図に入れてみた。北海道ならびに東北地方の不要不急線は、意外に少なく見える。やはり、線路を回収して製鉄工場へ運ぶとなると、運び出すのに手間がかかる。
加えて北海道や東北地方には炭鉱や、鉱物資源が豊富だったことも見逃せない。一方で、沿線にそうした資源がない農村部を走る路線、例えば道内の札沼線(さっしょうせん)、興浜(こうひん)北線、興浜南線などは休止となっている。
一方の関東・甲信越・中部地方の路線となると、不要不急線に指定される路線が多かったことが地図を見ても分かる。もちろん、この地域の路線数が多かったことがあるものの、やはり運び出しやすいという理由もあったのだろう。特に東京都下と、中部地方では名古屋鉄道(名鉄)の路線が目立つ。
不要不急線と指定された路線はその後どうなったのか? 戦後そのまま廃止となった路線がある一方で、営業再開、また単線が複線に戻された路線もあった。復活したものの、今はない路線もあり、明暗がはっきりと分かれている。とはいえ、沿線に住み、鉄道を利用してきた人にとっては、迷惑な話であることは確かだった。
【不要不急線③】取り外された線路は果たして役立ったのだろうか
不要不急線の指定は太平洋戦争の最中であり、どのような人たちがレールを取り外し、どのように運んだのか、記録を探すことができなかった。戦時下ということもあり、戦争に関わる事柄はすべて秘密だったせいもあるのだろう。果たして路線が休止となり、線路を運び出したところで、役立ったのだろうか。また鉄道会社への支払いはどうだったのか?
不要不急線の指定と同様に、戦時下に多くの民営鉄道(私鉄)が買収され国鉄(当時は鉄道省)の路線に組み込まれた。この時もほぼ強制的で、反対意見など言ったら、すぐに“非国民”となった。買収といっても戦時公債で支払われ、戦時中にはほぼ現金化できなかった。いわば“寄付”のような状況である。さらに戦後は超インフレとなり、戦時公債が戦後に償還される時には、ほぼ紙切れ同然でタダのような金額となっていた。
外された線路にしても、例えば、外地の占領地で鉄道敷設のために輸送船に積まれたものの、目的地へ着く前に敵の潜水艦によって沈められ、目的地に到着できなかったなどの逸話が残っている。
要は、戦時下のごたごたした時期であって、不要不急線と指定されて線路が外されたものの、実際にどの程度役立ったのかは未知数である。もちろん、戦後に線路を外した路線の復旧などをする力は敗戦国に残っていなかった。結果を見れば、迷惑きわまりない話であり、とんだ無駄だったことが分かる。それがまた戦争が持つ宿命なのだろうが。
国の暴挙に付き合わされ、大変な思いをする、また不便な思いをするのは庶民ということなのかも知れない。