本・書籍
2019/6/10 21:45

かつて3年間しか存在しなかったプロ野球チーム「高橋ユニオンズ」を知っているか?

現在、日本野球機構(NPB)に属するプロ野球チームは12。セ・リーグ6チームにパ・リーグ6チームだ。

 

2004年に大阪近鉄バッファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併に伴い、球団数が変更になる恐れがあったが、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立されたことにより、両リーグとも6チームが維持された。

 

しかし、プロ野球の歴史をたどっていくと、2リーグ制になった1950年はセ・リーグ8球団、パ・リーグ7球団だった。翌1951年には両リーグとも7チームに、そして1953年にはセ・リーグ6チーム、パ・リーグ7チームとなった。

 

当時パ・リーグは、人気のあるセ・リーグに対抗すべく7チームを維持。そしてさらに8チーム制にすることを決定する。

 

そのときに生まれたチームが、「高橋ユニオンズ」だ。

 

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個人がオーナーを務める寄せ集めの急造団体

通常プロ野球チームというのは、企業が運営している。読売ジャイアンツならば読売新聞社、阪神タイガースならば阪神電鉄といった感じだ。

 

しかし、この高橋ユニオンズは無理矢理8チーム制にするために作られた急造チーム。いろいろな企業にパ・リーグ側は打診したが断られ、最終的に大日本麦酒の社長から参議院議員、そして通産大臣も歴任した高橋隆太郎氏に打診。個人がオーナーの球団が1954年に生まれた。

 

選手は他のチームからの移籍+新人+外国人で構成。当初は他チームの主力選手が来るという話だったが、ふたを開けてみれば峠を越えた選手や、他球団を自由契約や解雇された若手などばかり。有名選手といえば、戦前から日本で活躍していたベテランのスタルヒン投手くらい。あとは30代の選手がメインだった。元広島カープでメジャーリーグも経験している黒田博樹の父である黒田一博もいた。

 

いわゆる「寄せ集め」のチームな上、主力選手がベテランしかいないという状態。結果的に3年間でチームは大映と合併。事実上の解散となった。

 

最終年には、後の「プロ野球ニュース」でキャスターを務める佐々木信也氏が入団。めざましい活躍をしたものの、移籍先で活躍できずわずか4年で引退した。

 

 

弱かったけど、いいチーム。それが「高橋ユニオンズ」

その高橋ユニオンズについて丹念に取材をして執筆された書籍が『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』(長谷川昌一・著/彩図社・刊)だ。本書によると、高橋ユニオンズOB会が毎年開催されているとのこと。しかし、1956年に解散した球団のため、OBの数は減りこそすれ増えない。それでも佐々木信也氏を中心に開催されているそうだ。

 

本書を読むと、高橋ユニオンズの設立から解散までの状況がよくわかる。設立当初から「最弱球団」というレッテルを貼られながらも、オーナー始め、監督、コーチ、選手、スタッフが必死に戦っている。恵まれた環境ではなかったものの、当時の選手たちのほとんどが「楽しかった」と感じているようだ。

 

 

「弱かったけど、いいチームだった」――それこそが、ユニオンズの特長を言い表している言葉なのかもしれない――。

『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』より引用

 

たった3年でなくなってしまったプロ野球チームだが、確実に存在していた。今ではほとんど話題に上らないが、系譜的には千葉ロッテマリーンズにつながっている。高橋ユニオンズの遺伝子は、今のプロ野球にも引き継がれているのだ。

 

弱い上に短命。しかし、プロ野球の歴史から「高橋ユニオンズ」の名前は消えることはない。プロ野球ファンなら、覚えておきたい。

 

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【書籍紹介】

最弱球団 高橋ユニオンズ青春記

著者: 長谷川晶一
発行:彩図社

1954(昭和29)年からわずか三年間、パ・リーグの一員として存在した「高橋ユニオンズ」。1957(昭和32)年に「大映スターズ(現:千葉ロッテマリーンズ)」に吸収合併され消滅した“幻の球団”にして、通算勝率わずか.344という“最弱球団”だ。本書は当時の球団関係者に取材を重ね、今まで顧みられることのなかったユニオンズの全史を明らかにしたものである。

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