こんにちは、書評家の卯月 鮎です。最近、「F.I.R.E.(ファイア)」という言葉をよく聞きます。これは「Financial Independence, Retire Early(経済的な独立と早期リタイア)」の略で、まあ、簡単に言えばセミリタイアのこと。若い人の目標となっています。
とはいえ、リタイアするのはいいですが、新しい生きがいを見つけるのはなかなか大変かもしれません。私の友達も「趣味らしい趣味がない」と、よくぼやいています。せっかくF.I.R.E.しても「仕事をしていたころのほうが充実していた……」なんて状況になったら本末転倒なのは、ファイアだけに火を見るより明らかです。
生きがいと言える趣味はありますか?
今回の『陶芸は生きがいになる』(林 寧彦・著/新潮新書)は、広告会社に勤める無趣味だった会社員が陶芸という生きがいを見つけて、プロの陶芸家になるまでを綴ったエッセイ。
著者の林 寧彦さんは、博報堂で長年CMプランナーとして活躍してきた経歴の持ち主。バブルが崩壊して時間が余るようになり、趣味を見つけようと40歳手前で陶芸教室をのぞいたところ、深みにハマってしまったそうです。陶芸のどこにそれほど惹きつけられたのでしょうか?
単身赴任先のマンションが工房に!?
第1章「僕の陶芸入門」は、陶芸経験ゼロから“カリスマ日曜陶芸家”と呼ばれるに至るまでの道のりが順を追って語られています。趣味を見つけようと陶芸教室を見学しに行った林さん。お試しのつもりが、自分の手で粘土のかたまりが湯飲みになるのを目の当たりにして、その日のうちに教室への入会を決めたそうです。
一生の趣味になると確信した林さんは、「耐用年数10年なら1か月1000円以下だから」と理由を付けて、10万円ほどの電動ロクロを購入し、ベランダで湯飲みをひたすら作る日々。
始めて8か月で県の美術会が主催する展覧会「県展」に、大きな直径40cmほどの鉢を出品すると見事入選! でも、展覧会の図録で出品者の94%が入選していると知りガッカリ。妻がのぞき込もうとするのを見て急いで図録をバッグにしまったとか(笑)。エッセイのあちこちにほのぼのとした風景が見え隠れし、読んでいて温かい気持ちになります。
その後、気乗りしない福岡への転勤話が持ち上がるも、単身赴任先のマンションを工房化することにして、ポジティブに受け入れた林さん。思い切って、マイコン制御で温度管理できる電気窯を発注します。その価格はなんと100万円! ところがマンションのエレベーターよりも外寸が大きいことに後から気付いて……。試行錯誤しながらステップアップしていくワクワク感がこちらにも伝わってきます。
第2章「陶芸は奥が深くて面白い」は、陶芸の歴史など多彩な陶芸雑学を集めたコラム的な章。『美味しんぼ』の海原雄山のモデルにもなった陶芸家・北大路魯山人は、実はロクロを挽いていなかったという話には驚きました。ではどうしたかというと、専門のロクロ師に器を挽かせてから好みの形に仕上げていたとか。まさにアートディレクターといったところでしょう。
ほかにも、「陶芸家が惜しげもなく作品を割るのはなぜ?」「陶芸家にはどうやったらなれるの?」「信楽、織部、志野など焼き物の名前の由来は?」など、興味をそそるトピックスが並んでいます。
5年間の単身赴任を終えた林さんは、帰任して3年後に早期退職制度を使って会社を辞め、陶芸家という第二の人生を歩み始めます。本書には「失敗しない陶芸教室の選び方」などのアドバイスも多く、陶芸を始めたい人のサポートにも最適。1000円弱の新書の出費で、もし新しい生きがいが見つかったらこんなに素晴らしいことはありません。
【書籍紹介】
『陶芸は生きがいになる』
著者:林 寧彦
発行:新潮社
“生きがい”になる趣味がほしい――すべてはここから始まった。中年にさしかかった著者が、ふと見学した陶芸教室。まずは週末だけと通ううちに、土いじりの解放感と自分の手で作る達成感、釉薬の不思議に憑かれていく。そこには、他では得られない心の充足、出会い、何より新しい人生の予感があった。プロの陶芸家になった著者が実体験を元に、初心者向けアドバイスと陶芸の喜びを丸ごと紹介する。
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【プロフィール】
卯月 鮎
書評家、ゲームコラムニスト。「S-Fマガジン」でファンタジー時評を連載中。文庫本の巻末解説なども手がける。ファンタジーを中心にSF、ミステリー、ノンフィクションなどジャンルを問わない本好き。