【水島臨海鉄道の謎②】水島臨海鉄道の創立が新しいのはなぜ?
爆撃によって破壊された三菱重工水島航空機製作所だったが、戦後は飛行機の生産を断念し、自動車の生産を始めた。終戦の翌年、1946年には「三菱・みずしま」の名でオート三輪の製造・販売が行われている。この変わり身の早さには感心させられる。生産には飛行機用の材料や、軍用トラックの製造技術が活かされたとされる。亀島山の地下工場に製作機械などを疎開させたことも役立ったのだろう。工場は戦後の国造りや復興に役立っていたわけである。
専用鉄道はどうなったのだろう。戦後の1947(昭和22)年に、まず水島工業都市開発に移管された。さらに1952(昭和27)年、倉敷市交通局に譲渡され、市営鉄道路線となった。1953(昭和28)年には水島臨海工業地帯の建設が始まった。この臨海工業地帯の建設に、同路線が活かされた。
1950年代に撮られた写真には、畑が広がる中、貨車と客車を連ねた混合列車が走る様子が写り込む。主力機関車は、専用鉄道ができた当時に胆振縦貫鉄道(いぶりじゅうかんてつどう/北海道伊達町)から譲渡された1号蒸気機関車だった。1号機関車は路線開業当時から1956(昭和31)年まで使われた。
現在の路線を運行させる水島臨海鉄道株式会社は地元倉敷市、および日本国有鉄道(現在はJR貨物)などが出資して1970(昭和45)年2月2日に設立された。同年4月1日に倉敷市交通局から、市営の鉄道線を譲り受け、水島臨海鉄道水島本線などでの列車の運行を始めている。
路線が戦前に造られたのにもかかわらず、水島臨海鉄道の設立が、比較的新しいのは、2つの企業および団体の運営を経たためだった。鉄道路線の運営は、倉敷市のみでのは難しく、当時の国鉄に鉄道会社の運営に加わってもらい、今に至るというのが実情だった。
【水島臨海鉄道の謎③】旅客営業は倉敷市駅〜三菱自工前駅間だが
ここからは現在の水島臨海鉄道を見ていくことにしよう。
水島臨海鉄道は貨物輸送を行う一方で、旅客営業を続ける臨海鉄道である。他に、貨物輸送と旅客営業を共存させている臨海鉄道は、茨城県を走る鹿島臨海鉄道しかない。
同鉄道は水島臨海工業地帯にある工場のコンテナ輸送を行うとともに、通勤・通学の足として利用されている。この水島臨海鉄道、路線図を見ただけでは、列車がどのように運行されているのか、ちょっと分かり難いところがある。簡単に運行形態について触れておこう。
まずは旅客列車の運行に関して見ていこう。旅客列車の起点となるのは、JR倉敷駅に隣接する倉敷市駅。水島本線の路線は、この倉敷市駅と倉敷貨物ターミナル駅間となっているが、乗車できる区間は、倉敷貨物ターミナル駅の手前、三菱自工前駅までだ。
倉敷市駅発の旅客列車は三菱自工前駅(距離10.4km)行き、もしくは一つ手前の水島駅行きが運行される。列車は20分〜30分おきが基本だが、11時台や15時台には1時間に1本と列車の本数が少なくなる。
一方、貨物輸送はどのような運行形態をとっているのだろう。貨物時刻表には、JRの路線から、そして水島臨海鉄道からJR路線への乗り入れる列車の時刻が掲載されている。
現在は、1日に3往復がJR山陽本線の岡山貨物ターミナル駅と、水島臨海鉄道港東線(こうとうせん)の東水島駅(貨物専用駅)の間を結ぶ(上り列車の1本は東水島駅発、岡山貨物ターミナル駅経由、東京貨物ターミナル駅行き)。さらに岡山貨物ターミナル駅と倉敷貨物ターミナル駅間を走る貨物列車も1日に1往復、臨時列車扱いで走っている。
港東線は水島本線の水島駅から分岐、東水島駅へ向かう貨物専用線。貨物駅の東水島駅は倉敷市の潮通三丁目の、大小の工場や発電所に囲まれた場所にある。
一方の倉敷貨物ターミナル駅は三菱自工前駅の800m先にあり、水島臨海鉄道の車両基地、整備工場、運転区に隣接している。倉敷貨物ターミナル駅〜水島駅〜東水島駅を結ぶ水島臨海鉄道内のみを走る貨物列車も運行されている。
ちなみに倉敷貨物ターミナル駅という名前から、大規模な貨物駅を想像してしまうのだが、規模は小さめで、今は三菱自動車工業で生産された軽自動車をコンテナへ積み込む業務が主となっている。