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2020/5/31 18:30

もう二度と列車が走らないーー「日田彦山線」の名物めがね橋を振り返る

【日田彦山線の記録③】路線の全通は高度成長期に入ってから

誠に残念な結果になってしまったが、ここからは日田彦山線の取材材料を元に全線を乗車したころの様子を振り返ってみよう。

 

日田彦山線の歴史は複雑だ。日田彦山線が走る九州の北部地域は、もともと石炭や石灰石の採掘用に設けられた鉄道路線が多い。これらの路線を継承したのが日田彦山線なのである。そうした足跡が路線の各所に残る。

 

路線の成り立ちを触れておきたい。歴史は路線の中間部にあたる田川伊田駅〜田川後藤寺駅間が1896(明治29)年2月5日に開業したことに始まる。路線は日豊本線の行橋駅(ゆくはしえき)から、後藤寺駅(現・田川後藤寺駅)まで延ばされたその一部だった。現在の平成筑豊鉄道田川線にあたる。

 

その後、小倉鉄道という鉄道会社が東小倉駅(鹿児島本線)を起点に、伊田駅、添田駅を目指す路線の敷設を行う。同路線は1915(大正4)年4月1日に開業した。このように路線の敷設が活発に行われていた背景には、国の富国強兵政策があった。同路線の北には北九州の重工業地帯が広がっていた。製鉄工場などの生産力を高めるためにも、近くに材料や燃料の供給地が必要だった。開業した同路線からは積み荷を満載した貨物列車が頻繁に北九州へ向けて走った。

↑呼野駅(よぶのえき)は峠の手前にあり1983年までスイッチバック駅だった。筆者が訪れた時には線路やホームの跡が残されていた

 

↑採銅所駅の隣接地に残っていた旧貨物ホーム。貨物列車の運行が主体だった路線でもあり、こうした広い構内を持つ駅が多かった

 

↑普通列車が採銅所駅を発車する。かつては駅の近くでは銅の採掘が行われていた。採掘の歴史は古く、奈良時代からとされている

 

添田駅(現・西添田駅)までは明治・大正期に路線が延ばされた。ところが、添田駅〜夜明駅間の路線づくりは以降、多少の時間があく。1937(昭和12)年に夜明駅〜宝珠山駅(ほうしゅやまえき)が開業、1942(昭和17)年には西添田駅〜彦山駅まで開業する。つまり南北から徐々に、路線が延ばされていったわけである。

 

太平洋戦争をはさみ、1946(昭和21)年9月20日には宝珠山駅〜大行司駅(だいぎょうじえき)間が開業する。彦山駅〜大行司駅間が最後まで未開通区間として残っていたが、1956(昭和31)年3月15日に開業した。そして1本の線路としてつながる。1960(昭和35)年に日田彦山線という路線名に改称された。

 

日田彦山線は、一部区間が開業してから実に60年以上の年月を経て、全線が開通したわけである。

 

【日田彦山線の記録④】石炭産出で活況となったものの……

日田彦山線の歴史をたどると、やはり採炭地を走っていたことが大きい。路線が通る田川市(たがわし)はその代表格だ。

 

田川は炭坑節の発祥の地でもある。田川伊田駅の南側には、三井田川鉱業所があった。鉱業所は現在、田川市石炭・歴史博物館として姿を変えている。同鉱業所は日本最大の出炭量を誇った筑豊炭田の中でも、最大規模の炭鉱だった。鉱業所内の伊田竪坑は1910(明治43)年に竣工したもので、日本三大竪坑の一つとされた。今、坑跡は国の指定史跡になっている。

 

こうした採炭量を誇った田川鉱業所も1964(昭和39)年に閉山されてしまう。つまり日田彦山線が全線開業したころには、すでに石炭の輸送は下火を迎えつつあり、路線の使命も貨物輸送よりも、旅客輸送に大きく転換が迫られていた時期だったことが分かる。

↑田川市石炭・歴史博物館のシンボル「二本煙突」と保存された9600形蒸気機関車。59864号機で、同機は筑豊本線のSLさよなら列車を牽引した

 

【日田彦山線の記録⑤】英彦山が沿線最大の観光ポイントだった

添田駅までは石炭や石灰石の輸送用に敷かれた路線だった。添田駅以南は路線の趣ががらりと変わる。筑豊地方と久大本線が通る日田地方を結ぶために建設された山岳路線となる。また修験の山、英彦山への参拝客の輸送を目的としていた。要は添田駅を境に、路線の成り立ちが全く異なるのである。

 

そして今回、鉄道が走らなくなるのは、この山岳地帯である。山なかの路線ということもあり、車窓は魅力に富んでいた。写真を中心に、不通となった区間をたどってみよう。まずは英彦山の玄関口、彦山駅から。

↑彦山駅のホームに入線する小倉駅行列車。英彦山神宮を模した駅舎(左上)。駅舎内には放送室などの施設もあり充実していた

 

彦山駅の木造駅舎は英彦山神社を模しており、朱塗りの大屋根と林立する柱が印象的だった。英彦山(ひこさん)は大峰山(奈良県)、羽黒山(山形県)と並ぶ日本三大修験の山である。駅前にはレトロな案内板が掲げられ、英彦山の全景ガイドを見ることができた。駅の正面にはヤマメや鯉料理などを売りにした“駅前食堂”がある。日田彦山線ではもっとも行楽色が強い駅だった。

 

当時、降り立った駅の中では、彦山駅の乗降客は沿線で最も多かった。多かったとはいっても数人であったのだが。

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