【その後の路線②】戦後に復活した路線も明暗が分かれた
ここでは休止となったのち、戦後に営業再開したものの、現在は廃止された路線をあげてみる。
○休止後に再開したものの今はない路線(前述の地図「▲」)
■鉄道省(その後の国鉄)の路線
◇北海道
・札沼線:石狩月形〜石狩追分間45.8km、1943(昭和18)年10月1日休止。石狩当別〜石狩月形間20.4km、1944(昭和19)年7月21日休止。石狩追分〜石狩沼田間19.3km、1944(昭和19)年7月21日休止
札沼線は段階的に休止区間が決められていった。戦後すぐの1946(昭和21)年に石狩当別〜浦臼駅間が営業再開。全線の営業再開は1956(昭和31)年と、だいぶ後のことになった。再開されたものの乗車率が低く徐々に区間廃止が進められていく。記憶に新しいところでは2020(令和2)年5月7日に、北海道医療大学〜新十津川間が正式に廃止された。不要不急線として休止された区間で今も残るのは、北海道医療大学〜石狩当別間の3.0kmのみとなっている。
・興浜北線:浜頓別〜北見枝幸30.4km、1944(昭和19)年11月1日休止。興浜南線:興部(おこっぺ)〜雄武(おうむ)間19.9km、1944(昭和19)年11月1日休止
オホーツク海を望む道北にあった両線。興浜線として結ばれる予定だったが、戦時下に休止、戦後まもなく営業再開したものの、1985(昭和60)年の7月1日に興浜北線が、同じ年の7月15日に興浜南線が相次いで廃止された。
◇東北地方
・川俣線(福島県):松川〜岩代川俣間12.2km、1943(昭和18)年9月1日休止
東北本線の松川から伊達郡川俣町まで走った路線で、1926(大正15)年に開業した。戦時中に休線となったものの、戦後に営業再開した。終点の川俣は織物の生産地であったものの、それ以外に輸送する産物に乏しく、1972(昭和47)年に廃止された。
◇関東地方
・中央本線下河原線(東京都):国分寺〜東京競馬場前5.6km、1944(昭和19)年10月1日休止
下河原線は中央本線の支線で、当初、国分寺と下河原を結ぶため東京砂利鉄道によって1910(明治43)年に開業した。その後に国有化され終点駅を東京競馬場前に変更。戦時下に休止、戦後に営業再開した。武蔵野線の開通に合わせて1973(昭和48)年に廃止となる。筆者は通学路の近くに線路があったため、競馬開催日以外の平日は、旧形国電が1両で走っていた姿を覚えている。
◇甲信越地方
・魚沼線(新潟県):来迎寺〜西小千谷13.1km、1944(昭和19)年10月16日休止
信越本線の来迎寺と西小千谷を結んだ路線で、1911(明治44)年に魚沼鉄道として開業した。その後に国有化され戦時下に休止したが、1954(昭和29)年に営業再開された。興味深いのは国有化された後も軽便鉄道の線路幅だったこと。線路幅の762mmが在来線の1067mmになったのは1954(昭和29)年のことだった。1984(昭和59)年に廃止となっている。
・弥彦線(新潟県):東三条〜越後長沢7.9km、1944(昭和19)年10月16日休止
弥彦線は現在も東三条〜弥彦間の営業が行われている。かつては信越本線を横切り東三条から越後長沢まで路線が延びていた。元は越後鉄道という会社が開業させた路線で、東三条〜越後長沢間は1927(昭和2)年に路線が延ばされている。延伸後すぐに国有化、戦時中に休線となり、戦後まもなく営業再開となったが、1985(昭和60)年に廃止となっている。
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こうして見ると、営業再開されたものの、盲腸線が大半だったこともあり、昭和後年に大概が廃止されている。廃止に至った原因は、沿線人口の減少、産業構造の変化、貨物輸送が鉄道から自動車への変換などがあったものの、もともと乗車率の低い路線だったことも大きかったと言えるのだろう。