乗り物
鉄道
2021/6/3 20:00

東急の礎を築いた「五島慶太」−−“なあに”の精神を貫いた男の生涯【前編】

【五島慶太の生涯④】まずは目蒲線から路線づくりを始めた

何もないところに住宅地を造り、移動手段として鉄道を敷設する。今となれば、最初に考えた渋沢栄一には先見の明があったことが分かる。しかし当時、不毛の台地に鉄道を敷こうなんてことは、破天荒過ぎる考えだった。そんな鉄道路線づくりを、五島慶太は始めたわけである。

 

まずは目蒲線(現・目黒線と東急多摩川線)の路線づくりから手を付け始めた。

 

1923(大正12)年3月11日 目黒蒲田電鉄が目黒線・目黒駅〜丸子駅(現・東急多摩川線沼部駅)間8.3kmが開業

11月1日 丸子駅〜蒲田駅間4.9kmが開業、目蒲線に改称、同線が全通する。当初9月開業予定だったが関東大震災の影響で11月にずれた

 

この年の9月1日に関東大震災が起ったことにより、目蒲線の開業は計画よりも遅くなった。工事現場も被害を受け、慶太自ら現場に出て、作業員らと一緒に復旧作業を行うなど苦闘した。関東大震災の後に下町から山手に住まいを移す人も出てくるようになった。山手線沿線に住む人は増えたものの、城西・城南の郊外へ住まいを移す人はそれほど多くはなかった。

↑目蒲線開業直後に旧丸子駅で写した目黒蒲田電鉄重役一同。左端が五島慶太、右から5人目が小林一三(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)

 

↑現在の東急蒲田駅。右上は大正末期の蒲田駅(昭和18年刊『東京横浜電鉄沿革史』)。駅周辺は閑散としていたことが良く分かる

 

目蒲線が開業してから間もなく、次は東横線の開業を目指した。まずはペーパーカンパニーだった武蔵野電気鉄道の社名を、1924(大正13)年に東京横浜電鉄と変更した。五島慶太が専務に就任、小林一三が監査役となっている。そして、

 

1926(大正15)年2月14日 東京横浜電鉄が神奈川線・丸子多摩川駅(現・多摩川駅)〜神奈川駅間14.8kmを開業、目蒲線からの直通運転を開始

1927(昭和2)年8月28日 渋谷駅〜丸子多摩川駅間9.0kmが開業。路線名を東横線とする

 

渋谷駅と神奈川駅間の全通が遅れたのは、多摩川の架橋工事に手間取ったからだった。この架橋工事でも慶太は陣頭指揮をとったと記録されている。

↑東横線の開業当時、横浜側の終着駅は神奈川駅(廃駅)だった。路線跡は東横フラワー緑道として整備され、線路のモニュメントも設置されている

 

【五島慶太の生涯⑤】東横線の路線を横浜まで延ばしたものの

大正から昭和初期にかけて設けられた目蒲線と東横線だったが、当初は利用者も少なく苦戦続きだったが、徐々に乗客が増えていき、路線延伸が続けられた。

 

1927(昭和2)年7月6日 大井町線、大井町駅〜大岡山駅間4.8kmが開業

1928(昭和3)年5月18日 東横線、神奈川駅〜高島駅間1.2kmが開業

1929(昭和4)年11月1日 二子玉川線、自由ヶ丘駅(現・自由が丘駅)〜二子玉川間4.1kmが開業、12月25日 二子玉川線、大岡山駅〜自由ヶ丘駅間1.5kmが開業。大井町駅〜二子玉川駅間が全通し、大井町線となる。

1932(昭和7)年3月31日 東横線、高島町駅〜桜木町駅間1.3kmが開業

 

現在まで続く、東横線、目蒲線(目黒線と東急多摩川線)、大井町線の路線網が、昭和初期でほぼ造り上げられた。

 

年号や開業日だけを見ると、いかにも路線の開業、延伸が上手く進んだように見えるが、すべて上手くいったわけではなかった。

 

1927(昭和2)年に起きた金融恐慌の影響、さらに世界恐慌。銀行は連鎖倒産、中小企業の倒産、労働争議も各地で起き、工場閉鎖が相次いだ。そして失業者が町にあふれた。現在、コロナ禍とはいえ、大卒の就職内定率は90%近くになる。ところが当時は大卒で就職できたのは30%だった。どん底の不況が日本を襲った。

↑1935(昭和10)年ごろの東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄の路線図。前年に池上線も同社の路線となり拡大路線は順調に進んだ

 

慶太も新線建設のための資金ばかりか、従業員の給料にと、銀行を駆けずり回るが、資金調達が断たれてしまうこともしばしばだった。資金繰りに苦しみ、わずかばかりの借金で保険会社にも頭をさげて回ったと伝わる。

 

「松の枝がみな首つり用に見えて仕方がなかった」

(日本経済新聞社刊『私の履歴書』より)

 

豪毅な五島慶太でさえ、この時ばかりは死を覚悟したようである。とはいえ、こんな絶体絶命な時にも、嘉納治五郎の教え、“なあに”の気持ちで踏ん張った。この時の経験は五島慶太の『予算即決算主義』の経営哲学の確立に役立ったとされる。

 

当時の東横線のチラシには「ガラ空き電車を御利用下さい」の文句すらある。なかば居直りにも感じられるセールストークである。このガラ空き電車の文句には前例があった。事業の師でもあった阪急創始者・小林一三氏も同じ文言を使っていたのである。

 

小林一三は、神戸線開業時に自ら次の広告文を書いている。「綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」とした。小林一三も、五島慶太も、どのように大変な時でも、茶目っ気を忘れなかったようである。

 

金融恐慌、世界恐慌の不景気に震撼した日本経済だったが、転機が訪れた。1931(昭和6)年9月18日に起きた満州事変だった。中国の満州で起きた紛争により、その後、関東軍は満州の占領を進める。この軍需景気により、日本の経済は復活し、湧いたのである。

 

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4