〜〜大正・昭和初期の鉄道路線図・鳥瞰図を読み解くNo.1〜〜
家で楽しめる鉄道趣味の世界。今回は大正期から昭和初期に“異常なほど”にブームとなった鉄道鳥瞰図を見ていきたい。吉田初三郎というひとりの天才絵師の登場により、その後、彼を追うように優れた作家たちが数多く生まれ、一大ブームとなったのだ。
彼らがつくる鳥瞰図は今みても、“えっ!そこまで描くか!”という構図が多く、強く引き込まれる魅力を放つ。当時の沿線模様が楽しめる約100年前の世界にタイムスリップしてみよう。
*緊急事態宣言および、まん延防止措置が引き続き一部地域に宣言・発令されています。不要不急の外出を控えていただき、宣言解除後に鉄道の旅をお楽しみください。
【はじめに】デジタル化された現代とは異なる超アナログの世界
鳥瞰図(ちょうかんず)とは、上空から陸地を斜めに見下ろすように作られた地図のこと。鳥のように空を飛び上空から眺めたところを図にしたものだ。下の図は筆者が作ったもの。ある出版社のガイドブックを編集制作した時に、立山黒部アルペンルートを上空から見るというテーマで作った。
現在では、カシミールという地図を3Dに加工するソフトと作図用ソフトを使えば、それほど難しくなく鳥瞰図を作ることができる。また、こうした出版用の鳥瞰図でなくとも、現代人は3Dビューの地図、つまり鳥瞰図に簡単に接することができ、敷居の高い世界ではなくなっている。
今でこそ簡単に作れ、また接することができる鳥瞰図の世界だが、100年ほど前に作り出していた人たちの苦労は生半可なものでなかったことが想像できる。
時は明治末期から大正、そして第二次世界大戦までの平和な時期。1912(明治45)年にジャパン・ツーリスト・ビューロー(後の日本交通公社、現在のJTB)が創設され、国内外に観光ブームが巻き起こった時期でもあった。そんな時期に生まれた鳥瞰図を見て多くの人が触発され、旅を楽しむようになっていった。鳥瞰図はまさに観光ブームの火付け役ともなったのである。
【鳥瞰図の世界①】広げれば路線全体が一望できる神秘的な世界
大正から昭和初期に巻き起こった観光ブームの中で作られた鳥瞰図の装丁をまず見てみよう。多くの鳥瞰図は、国や府県、都市などの自治体、鉄道省(国鉄の前身)、旅館組合がお金を出して、絵師に依頼し、作図してもらった。民間の鉄道会社も例に漏れず、鳥瞰図を多く発注している。下の写真はそんな鉄道会社が発注した鳥瞰図の例である。
その多くは厚地の表裏カバーが付き、中には鳥瞰図が折り畳まれている。開くと左右80cmにもおよぶ大きな地図が広がる仕組みだ。タテは18cmほどなので、かなり横長だった。
広げると、それこそ鳥が飛んだ時に見えるような風景がそこに表現されていた。当時の人にはさぞや新鮮に見えたことだろう。大半の人が飛行機には乗る機会がなかっただろうし(日本初飛行は明治末期のこと)、航空写真やドローンなどで撮った映像などを見ることができなかった時代だからこそ、より鮮烈に受け取ったと思われる。
絵師たちはどのように鳥瞰図を作ったのだろうか。
参考になるのは平面的な地図のみで、今ほど細かい情報は書き込まれていない。鳥瞰図を作るとなると、その情報量の少ない地図を持って、描く場所をくまなく歩いて情報を得なければならなかった。カメラも持ち歩けるようなものは少なく、また筆記用具も今のようにコンパクトではない。クルマも容易に使えるものではない。鉄道を使って近くまで行き、あとは歩くしかない。ネット時代とは大きく異なり調査はかなりハードだったはずである。
そうした鳥瞰図の世界でスターとも呼べる人物が登場し、その人気が沸騰していく。今回は、そのブームを生んだ吉田初三郎作の鳥瞰図を中心に話を進めていこう。
【鳥瞰図の世界②】吉田初三郎が生みだした新世界。初期の作例
鳥瞰図の中で最も素晴らしい作品を生み出した絵師が吉田初三郎とされる。初三郎は1884(明治17)年、京都に生まれた。10歳の時に代表的な染色技法「友禅」の図案師の元に丁稚奉公に出され、その後に洋画家に師事。さらに師の薦めで商業美術の世界に歩を進めた。
鳥瞰図を作りはじめたのは30歳前後のことで、1914(大正3)年に「京阪電車御案内」という京阪電気鉄道の案内を制作したのが最初とされる。この鳥瞰図がその後の初三郎の運命を決めた。ちょうど皇太子時代の昭和天皇が「京阪電車御案内」をご覧になり「これはきれいで分かりやすい」と賞賛されたのである。
当時の、このお言葉の影響度は計り知れない。初三郎は途端に鳥瞰図の世界でスターダムにのし上がったのだった。その後には「大正の広重」とも称されるほど大物になっていく。初三郎が生みだした鳥瞰図は果たしてどのようなものだったのか、具体例を見ながら紹介していこう。今回例にあげたものは、みな脂がのったころのものだ。初三郎ワールドが全開となっている。
*鳥瞰図および絵葉書は筆者所蔵。禁無断転載
◆1922(大正11)年発行・秩父鉄道「沿線名所圖繪」
まずは秩父鉄道の「沿線名所圖繪」と名付けられた鳥瞰図から。初三郎が鳥瞰図を作り出して8年ほどの作品である。後期の作に比べると、極端なデフォルメはなされていないものの、秩父鉄道沿線を流れる荒川が東京湾まで流れ出る構図となっていて、遠く東京には明治神宮や、浅草観音寺などの文字が読み取れる。
今回、横に長い鳥瞰図は見やすいように2分割して右面、左面に分けた。また文字や絵が読み取れるように一部を拡大、古い絵葉書、現在の写真などを組み込んでみた。
この図で紹介された秩父鉄道は、1901(明治34)年に熊谷駅〜寄居駅間の路線開業によりその歴史が始まる(当時は上武鉄道という会社名)。少しずつ路線が延伸され、1917(大正6)年に影森駅まで、また翌年には武甲駅(ぶこうえき/貨物駅)まで延伸された。鳥瞰図は羽生駅〜武甲駅間の路線が敷かれた後のもの。ちょうど鳥瞰図の発行年に熊谷駅〜影森駅間が電化された。そんな背景があり、鳥瞰図内には電車の絵が描かれている。
ちなみに鳥瞰図の発行翌年、1923(大正12)年には宝登山駅(ほどさんえき)が現在の長瀞駅に駅名を改めている。翌年の変更ながら情報が伝わらなかったのか、新しい駅名に変更できなかったことが分かる。
初三郎の鳥瞰図は地図上、極端なデフォルメが行われているところが特長だ。秩父鉄道の鳥瞰図も、後に作られた図ほどではないが、実際には見えるかどうか微妙な、遠く東京の街まで描いている。加えて単なる路線紹介でなく、路線を線路に見立てて、そこに電車や列車を実際に走るように描いているのが特長となっている。鳥瞰図を単なる案内として仕立てるだけでなく、路線に電車を走らせて楽しくアレンジし、さらに遠くには、こんな町があるということを知らせている。見る人を引き込む要素をしっかり入れ込んでいるところがおもしろい。
秩父地方のシンボルでもある武甲山は図の中央にそびえさせているが、当時の武甲山は石灰石の採掘もそれほど進んでいなかった様子が窺える(現在は採掘により、かなり山容が変わっている)。色彩として平地はクリーム色、山地は緑色と変化をつけている。これ以降に制作したものよりも、やや暗めの彩色となっている。この後、初三郎の色付けは明るめなものに変化していく。