【五日市線の秘密⑨】旧大久野駅へ向かう廃線跡で意外な発見!
トレーラーバス青春号が走る日の出町の秋川街道。ここにはかつて、武蔵五日市駅からも電車が走っていた。せっかく武蔵五日市駅までやってきたこともあり、廃線跡を少し歩いてみようと思った。
実は筆者は学生時代にロードレース用の自転車を乗っていたことがあり、トレーニングがてらに、アップダウンが続く秋川街道を好んで走った。当時、坂道の横をこげ茶色の電気機関車と黒い貨車が行き来していた様子を覚えている。そんな路線跡は今、どうなっているのだろう。
武蔵五日市駅から秋川街道沿いに歩くことわずかに500m、早くも廃線跡を示す遺構を見つけた。
道路と鉄道線路を仕切る古いコンクリート製の「鉄道柵」が200mほど連なっていた。その柵の下には、小さなコンクリート製の「境界杭」と呼ばれる杭が打たれていた。鉄道用地と、道路用地の境界を示す杭だ。頭の部分にわずかに赤い塗装が残っている。今は雑草が生え、新たにフェンスも建ち、柵の内側を見ることができないが、ここを岩井支線の列車が走っていたことが分かる。
秋川街道をさらに北上していく。老人介護施設や太平洋マテリアルの工場が街道筋にあり、途中、あきる野市から日の出町へ入る。日の出町の最初の集落が「大久野(おおぐの)」だ。この西側に岩井支線の大久野駅があったはずで、地図を見つつ進むと「語らいとふれあい公園」という名前の公園があり、幼児向けの遊具とともに、屋根付きのゲートボール場があった。
公園の看板を確認したが、ここが旧大久野駅であることを示す案内はなかった。40年前に廃駅となり、旅客駅だったのはすでに半世紀以上前のことであり、住む人の多くが駅があった当時を知らない世代にかわっていると思われる。廃駅のすぐ裏手には「たばこ」の古めかしい看板が残る廃屋や、レトロな建物の美容院もあり、このあたりが駅前であったことが確認できた。
旧駅跡の北側にはかつて線路が敷かれていた細い未舗装の道が、平井川という小さな川沿いに伸びていた。この先は私有地で無断立入禁止の立て札があり、先に進むのを諦めた。平井川の上流には太平洋セメントの日の出工場があり、武蔵岩井駅跡は現在、工場の駐車場として利用されている。
廃線跡を歩くと寂寥感におそわれる。特にこの岩井支線は山間部の路線のせいか、徐々にその跡が森に包まれて消えていくように感じられた。
【五日市線の秘密⑩】五日市鉄道が走った拝島〜立川間の路線跡
五日市線には岩井支線と同じように廃線となった区間がある。それは拝島駅〜立川駅間の路線である。
こちらは岩井支線よりも前、今から78年前の戦時中に姿を消している。下記の地図を見ていただくと分かるように、拝島駅〜立川駅間は青梅線の路線がすでにあり、南を迂回するようにして走っていた。戦時下の当時は、とにかく鉄資源が不足していて、不用と判断された鉄道路線は〝不要不急線〟とされ次々に廃止されていった。五日市線のこの区間は青梅線もあり、不用と判断されたのだった。直ちに線路は剥がされ軍事物資の生産へ転用されていった。
この旧五日市線の廃線跡をたどると、そこに鉄道が走っていたことがあちこちで確認できる。例えば、拝島駅から徒歩3分ほど。「江戸街道」を渡った先から「五鉄通り」と呼ぶ遊歩道が延びている。五鉄とは、五日市鉄道の略称で、廃線跡にこうした通り名がつけられていた。さらに「五日市鉄道の線路跡」という案内板も道路の入り口に立てられている。
この地に鉄道の路線があったことを伝える車止めや転てつ機、さらに旧大神駅には鉄道関係の機器を使ったモニュメントが設けられている。また、この路線を造った五日市鉄道のDNAを受け継ぐ会社が実は今も存在している。この地に多くのバス路線を持つ立川バスこそ、五日市鉄道の歴史を受け継ぐバス会社なのである。今は小田急グループの一員となっているものの、五日市鉄道が走った当時よりも、そのバス路線は拡大され、地元の大切な足となっている。
40年前に消えた岩井支線は廃線をたどってみても、駅や廃線跡に鉄道が走ったことを示す証がほぼなかった。一方で、拝島駅〜立川駅間の廃線跡は、通り名やモニュメントに、かつて鉄道が走っていたことを示す証が多く残されていた。この差は何なのだろう。戦時中、日常的に使っていた鉄道が半ば強制的に廃止された。しかし当時は国の政策に文句を言うことができなかった。だが、沿線には廃線を惜しむ人がそれだけ多くいたということを示しているのかも知れない。実際に旧沿線には住宅が建ち並び、もしこの路線が残っていたら今も利用する人が多かったことが予測できる。
とはいえ、元五日市鉄道の伝統を受け継ぐ、立川バスの路線網がこのエリアに広がっている。路線が残っていれば良かったのか、また廃止されて良かったのかは判断がつかないが、なかなか興味深い歴史の移り変わりである。