デジタル
2016/2/1 8:00

【西田宗千佳連載】VRとは「没入」でなく「そこにいる」こと

「週刊GetNavi」Vol.39-2

OR01

1月6日、Oculusは3月に出荷予定のVR用ヘッドマウントディスプレイ「Oculus Rift」の予約受付を開始した。価格は599ドル。PC用の周辺機器としてはかなりの高額だ。しかも、ここにOculus Riftの能力を万全に活かせるPCをセットにすると、トータルコストは2000ドルを超える。日本の場合、諸経費もあって販売価格が高くなるため、これよりさらに割高だ。理想的な環境を整えることになると、10万円単位での出費を覚悟する必要がある。

「たかがゲームにそこまで」
そういう人もいる。だが、VRがもたらすものは「たかがゲーム」の域を超えている。だからこそ、この金額が高いと感じつつも、それだけの投資をしよう、という人が少なくないのである。

VRの鮮烈な体験とはなにか? それは、いままでの「ディスプレイの中に絵がある」ものとはまったく違う世界が存在する、ということだ。「VRは没入感がある」と言われることが多い。しかし、筆者の感覚からいうと、それは正しくない。例えば、最新のゲームを普通のテレビでプレイする時も、映像や音のリアルさ、ゲームとしての仕組みの上手さから「のめり込み」「没入する」ことはある。だが、OculusやPlayStation VRによるVR体験は、それらとはちょっと違う。

あえていうなら「そこにいる」感じだ。

VR用HMDでは、自分が向いた方向の映像が見える。映像にも「枠」がない。昔のHMDは「暗い中に映像が浮かんでいる」感じだったが、いまのものは違う。そして、首や体の動きに対する追随性が非常に高くなったため、映像が「動きに遅れてついてくる」「コマ落ちがする」こともなくなっている。このことは、VRにつきものだった「酔い」を解消するための重要な改善点だったのだが、結果的に、「そこにいる」感覚を強化することに、きわめて有効な手段になった。

SFの世界のVRは、現実と見間違うような世界が描かれ、結果、現実との錯覚を起こす、という形だ。現実のVRはそれとは異なり、画質は現実とは大きな差がある。「現実の世界であると錯覚する」ことはない。

しかし、自分の動きとHMDの表示が完全に一体化すると、「自分はその世界にいる」感覚が強くなる。特に、コントローラーとして既存のゲームパッドでなく、手の動きをトラッキングするデバイスを使った場合、「CGの空間の中で、自分が手をつかってなにかをする」感覚になる。こうなると、「映像は現実と違うのに、体は現実と同じように反応する」ようになる。

実際、筆者もそれをやらかしている。あるゲームをプレイ後、手に持っていた銃を、VR空間内の机に「置こうとした」のだ。

実際にはそんなものは持っていない。手にしていたのは棒状のコントローラーだし、自分が座っている椅子の前には机も存在しない。空間の上にコントローラーを「置いて」しまったのである。その行動について、筆者はみじんも疑問を持たなかった。

こうした実在感を得られる体験は、現状、VRしかない。映像の作り方や仕掛けの作り方で、世界はいかようにも変わる。ゲームとして作り上げるだけでなく、「世界を体験するもの」にしてもいいのだ。そうしたまったく新しいコンテンツの可能性に、人はいま、高いお金を払おうとしているのである。

では、そこでの問題点はなにか? その辺は次回Vol.39-3(2/8更新予定)で。

週刊GetNavi、バックナンバーはこちら