デジタル
2019/9/4 20:00

「不機嫌」なインターネットを、私はそれでも見つめていたい

アメリカ南部を舞台とした、ウィリアム・フォークナーの『サンクチュアリ』という小説がある。実はこの小説、ラストのほうに、ものすごーく残虐な場面があるのだ。

強姦の疑いをかけられ無実の罪で捕まったグッドウィンという白人男性が、町の人々によって監獄から引きずり出され、リンチで火あぶりの刑にあうのである。意地悪な白人と、差別されてかわいそうな黒人──そんな単純な構造ではない、憎悪に憎悪が重なった血と暴力の物語が、ここにある。

 

自分は差別されている。不当な扱いを受けている。あいつばっかりが、いい思いをしている。正しいのは自分だ。だから、あいつを引き摺り下ろしてやるんだ。1931年に出版された『サンクチュアリ』に描かれる差別と憎悪の交錯を見ていると、何かを思い出す。そう、現代のインターネット、SNSの世界だ。

 

いつも誰かが怒っているタイムライン

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ある時期から、SNSのタイムラインを眺めると、いつも誰かが怒っているな……と感じるようになった。私からそう見えるだけではないらしく、同意してくれる人もちらほらいるので、私個人の錯覚というわけでもないみたいだ。

具体的にいうと、おそらく2017年の末頃からだろうか。いや、もっと前からかもしれない。政治、育児、フェミニズム、企業広告やマンガやテレビの不快な表現。そういったものに、いつも誰かが怒っている。炎上のネタに事欠くことはない。

 

誰かの怒りの気持ちに触れるというのは、その怒りが正当なものであるかどうかとは関係なく、なかなかのエネルギーを必要とする。「なんだか最近、SNSを見ると疲れるんだよね」とぼやくと、人間関係とか、自分の見せ方・ブランディングなどで疲れているの? といわれてしまうことも多いのだけど、最近の私に限っていえば、そういうことで疲れてしまうフェイズはもうとっくに過ぎてしまった。

 

私が今SNSで疲れている原因は、もっぱら「怒っている人を見るのが嫌だ」という理由だ。たとえその怒りの理由に共感できたとしても、誰かの怒りに感応するだけでけっこう消耗してしまうのである。私が繊細すぎるのだろうか。でも、きっと同じように感じる人だって少なくないはずだ。

そうぼやくと、嫌ならタイムラインを見なければいいのに、ミュートすればいいのに、とアドバイスされることもある。もちろんアドバイスの意味はわかるし、実際そうしているときもある。それでも、気がつくとやっぱりSNSのタイムラインで、政治に、育児でのすれ違いに、男女やLGBTの人への差別に、企業広告に、マンガやテレビの表現に、「怒っている人」を見てしまっている。

 

でも、それが中毒になっているとか、やめられなくなっているとかっていうのとは、ちょっとちがう。

 

誰かが怒っているところを目撃することを、嫌だから、不快な気分になるからといって、やめてはいけないんじゃないのかと考えたりもするのだ。この人はなぜ怒っているのか。この怒りの気持ちがSNSで拡散されていることには、どういう意味があるのか。考えなければいけない、見なくてはいけないと思うから、完全には切れないのである。

ちなみに、「怒っているほう」がいつも常に正しいとは、私は決して思わない。それは『サンクチュアリ』を読めばわかる。「不当に差別された正しくてかわいそうな黒人」など、そこにはいない。不遇な経験をしたからといって、それは無実の罪を被った白人を火あぶりの刑に処してよい理由にはならないだろう。

 

怒っているほう、嘆いているほうが難癖をつけているように思うこともあるし、被害者面をして自分に都合のいい主張を押し付けているように思うこともあるし、そもそもの主張が矛盾しているように思うこともある。差別しているほうはもちろん、されているほうだって、決して聖人ではない。ときには悪意だってあるだろうし、嫉妬を孕んでいることだってある。「あいつを引き摺り下ろしてやりたい」という醜い感情を、持たない人間がいるだろうか。

だけど、男性と女性では、マジョリティとマイノリティでは、見えている世界がちがう──ということに、私も含めて、無自覚な人が少なくないのかもしれない。今、怒りを抱えていない人は、「怒らなくて済んでいる」ということがどれだけ贅沢で恵まれた環境であるかに、もっと自覚的でなければいけないのではないだろうか。

 

私が決して気分がいいわけではないSNSのタイムラインを見続ける理由は、そこにある。

 

なぜこの人は怒っているのか。そして、なぜ私は怒らなくても済んでいるのか。または、なぜ怒れないのか。その人が見つめている世界では、何が起きているのだろうか。

 

「不機嫌」でも、やってはいけないと私が思うこと

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男女や性差別の問題についてSNSで怒っている人を、「めんどくさい人」というレッテルを貼って、嘲笑しながら遠ざけてしまっている人もたまに見かける。せっかく楽しく気分良くやっていたところに、水を差されたような感じがするのだろうか。

 

誤解を恐れずにいうと、女性であるこの私ですら、「そんな小さなことまで気にせんでも」と思ってしまうことだって、ないわけではないのだ。だけど、誰かの真剣な怒りを「小さいこと」として片付けてしまうことは、おそらくもっともやってはいけない行為である。必ずしも怒りに共感したり、賛同しなくてもよい。

だけど、相手が真剣に怒っていたら、こちらも真剣に聞く必要がある。自分と相手では、見えている世界がちがう。こちらから見えている世界では差別なんてなくても、あちらから見た世界では依然として差別はある。そういう例って、私たちが気付いていないだけで、きっと枚挙に暇がないのだ。

 

いろいろな考え方があるだろうけど、ただ自分が「ご機嫌」でいられる情報にだけ触れていればいい、という意見に私はどうも賛成できない。なぜかというと、自分の視界からどれだけ徹底して「不機嫌」を排除しても、私やあなたの隣にいる大切な人は、その「不機嫌」に、不当な差別に、晒され続ける可能性があるからだ。自分の視界からのみ不機嫌な情報をシャットアウトしても、社会自体が変わらなければ、大切な人を救えないだろう。

 

インターネットの「空気」は数年単位で変わる。怒りと不機嫌と炎上が目立つのは、きっと今が、過渡期だからだろう。時代がこれからどう変わるのかはわからないけれど、おそらく、良いほうに変わるのだと私は信じている。だから、私と同じように「SNSの不機嫌さ」に疲れている人たちには、接する量を調整しつつ、もう少し一緒にこの不機嫌なインターネットを見つめていきませんか、と声をかけたい。

 

思えば、SNSがなかった時代には、隣で誰かが不当な差別を受けていても、怒りに打ち震えていても、苦しくて泣いていても、それに気付くことは簡単ではなかった。

 

だけど今は、もちろん発信する人にそれなりの勇気は必要だけど、昔に比べたら格段に、声を聞くこと自体は簡単になっている。これは歓迎すべきことなのだろう。そこに怒りが、苦しみが「ある」と私たちが知るだけで、きっと救われる人がどこかにいる。

もちろん他人に強制はしないけれど、不機嫌を抱え込んでもなおご機嫌でいられる強い自分に、私はなりたいなと思う。そしてTwitterのタイムラインを、今日もスクロールする。惰性ではなく。

 

【筆者プロフィール】
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チェコ好き
旅と文学とついて書くブロガー・コラムニスト。1987年生まれ、神奈川県出身。ちょっと退廃的なカルチャーが好き。HNは大学院時代にシュルレアリスムとチェコ映画の研究していたことから。
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