第10回「彼女は、胸元のスカーフを外した」
高校のとき、昼休みに教室にいるとどうしても息が詰まるので、こっそり屋上に上がって、よく時間を潰していた。
ある日、いつものように屋上のプレハブ小屋の裏で、ひとりぼんやりしていたときに事件は起きる。屋上のドアがバタンと大きな音を立て、言い争う女子たちの怒号が聞こえてきた。僕は声のするほうをこっそり覗いてみる。
体育座りのような状態で座っている女子がひとりと、それを取り巻く女子が四人。取り巻きの女子四人が、体育座りの女子に対して、罵詈雑言を浴びせつづけている。
「早く謝罪しろ、ほら」「誰の許可でカバン薄くしてんだよっ!」「なんか言えよ」と。体育座りをしている女子が、上級生の許可なくカバンをペラペラに薄くしていたことにキレている模様。いま考えると心底くだらないが、その頃の一年先輩は、平社員と社長くらいの歴然とした差があった(気がする)。
薄くペラペラになったカバンを、上級生たちが交互に踏みつけていく。カバンをひと踏みするごとに「オラッ!」の怒号が飛ぶ。「オラッ!」「オラッ!」「オラッ!」。奇祭のような事態を目の前にして、僕は固まっていた。とにかくなにも起こらない僕の高校時代の昼休みにおいて、これは一大事件だった。
程なくして、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。先輩の女子たちは「二度とカバン、薄くすんなよ」と捨て台詞を吐いて、屋上から一人ひとり消えていった。屋上に静けさが戻る。物陰に隠れた僕と体育座りの彼女、ただそれだけになる。
彼女は自分のカバンを見つめながら、フリーズしたまま動かない。そもそも薄かったカバンが、先輩たちに踏みつけられて、さらにペラペラになっていた。そのとき、無理な体勢で覗き見していた僕は、不覚にも両太ももがつってしまう。「イタタタタッ……」と悶絶したところを、彼女に見つかってしまった。

仁王のような怒り顔で、ズンズンと僕に近づいてくる彼女。僕はつったまま仰向けになり、「すみません!」と咄嗟に命乞いをした。彼女が僕の眼前に迫ってきた。彼女は腕組みをして、命乞いする僕を見下すと、「ハア〜ァ」と大きくため息をひとつ。「で、どうする?」と彼女。僕は、「一生誰にも言いません!(のちにエッセイに書く不義理さ……)」と度重なる命乞い。
「そんなことより多分鍵かけられたよ。で、どうする?」と彼女は返す。「えっ?」と驚いた僕は、両太ももがつったことも忘れて、一目散にドアのところまで走って行き、ガチャガチャとノブを回して引いてみるが、内側から鍵が掛かっていて、鉄のドアは微動だにしない。
振り向くと彼女が、ペラペラのカバンの中から、見たことのないパッケージのタバコを取り出し、一本口にくわえ、ライターで上手に火をつけるところだった。「ここで一緒に暮らすか?」彼女はタバコの煙を気持ちよく吐きながら、そう言って笑った。
その頃の僕にとっては、彼女の一挙手一投足が理解不能だった。「女ってよくわからないなあ」と僕が主語を大きめにして返すと、彼女は「フーッ」と容赦なくタバコの煙を浴びせてくる。
それから、お互いの私物(ハンカチ、生徒手帳、ヘアゴム)を校庭にいる生徒たちにめがけて投げてみるが、誰も気づいてはくれない。「学ラン、下に投げてよ」と彼女。学ランは教室に置いてきていることを彼女に告げると、「じゃあ、下脱ぐしかないね」と彼女は真顔で言う。
「とりあえず、この消しゴムがダメだったらでもいい?」と僕はポケットにあった最後の私物、使い古された消しゴムに一縷の望みを賭けた。くわえタバコの彼女は、「早くしてよ」と言わんばかりに、フーッと煙をまた吐いた。僕は、下にいた生徒たちの目線の先あたりをめがけ、慎重に落下させてみた。しかし残念ながら、誰も消しゴムに気づくことはなかった。
「やっぱり下脱ぐしかないんじゃない?」そう言いながらも彼女は、自分の胸元のスカーフを外す。「これがダメだったら、下脱いでよ」と彼女はくわえタバコで言う。彼女はスカーフを人差し指と親指とで持ち、フワッと風に乗せる。ゆっくり、ゆっくり、右へ左へ、スカーフは揺れながら校庭にいた体育教師の鼻先を掠めるようにして落下した。
おもむろに上を向く体育教師と、屋上から行方を追っていた僕と彼女の目が合った。僕と彼女はハイタッチくらいはした気がする。
こんな大事件、なにもない青春を送っていた僕の琴線に触れないわけがない。屋上のカギが開く頃には、彼女のことをすっかり好きになっていた。

次の日、彼女と廊下ですれ違ったとき、僕はドキドキしながら「よお、元気?」と声をかけてみた。彼女はフルシカトだったが、しばらく歩いてから振り返って、舌打ちを一つした。
彼女は高校卒業の八年後、あのとき屋上でカバンを踏んづけていた先輩のひとりと、ネイルサロンを開業したらしい。人づてにその噂を聞いたとき、「女ってよくわからないなあ」と、あのときみたいに言ってしまった。
イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生