〜〜もう一度乗りたい!名列車・名車両の記録No.3〜〜
ここ10年で在来線の長距離列車の顔ぶれが大きく変わった。急行列車は消えていき特急列車のみとなった。使われる車両も大きく変貌している
“もう一度乗りたい名列車”の3回目は、最後の夜行急行そして客車列車となった「はまなす」と、ともに消えていった津軽海峡を越えて走った特急および名列車を振り返ってみたい。
*写真はすべて筆者撮影・禁無断転載
【名列車の記録①】青森駅と函館駅を深夜に走った客車列車
かつては列島をくまなく走っていた急行列車。特急に比べて停車駅が多く、手ごろな料金で移動ができた。
まず特急と急行の料金を比較してみよう。特急料金の仕組みは複雑でJR各社や路線で微妙に異なるが、通常期で50kmまでが1030円〜1270円、100kmまでで1450円〜1700円といった金額だ(急行の料金設定があった2015年1月の金額=以下同)。
ところが、急行となると50kmまでが550円、100kmまでが750円、201km以上が1300円と安い。さらに特急が200km以上、100kmごとに割増となり最大601km以上3960円(A特急料金の場合)となるのに対して、急行の場合は201km以上という金額は設定されていなかった。それだけ手ごろな金額で乗車が可能だったわけである。
そんな急行列車も徐々に消えていき、2016(平成28)年に急行「はまなす」が消え、JRグループから急行列車が全廃された。今や列島を走るJRの有料列車は特急および新幹線のみとなってしまったのである(観光列車を除く)。
そんな最後の急行列車となった「はまなす」が走ったころを振り返ってみよう。同列車は津軽海峡を夜に越えることができる便利な急行列車だった。
●急行「はまなす」の概要
運行開始 | 1988(昭和63)年3月13日 |
運行区間 | 青森駅〜札幌駅 |
営業距離 | 475.2km |
所要時間 | 下り7時間49分、上り7時間39分(最終年の所要時間) |
車両 | 14系・24系客車。牽引はED79形交流電気機関車、DD51形ディーゼル機関車 |
料金 | 開放式B寝台1万5980円、指定席(ドリームカー)1万20円、自由席9500円 ※青森駅〜札幌駅間の大人1人分の運賃+急行料金+寝台料金・通常期の料金 |
運行終了 | 2016(平成28)年3月21日(下り)、正式には26日が運行終了日だったが、22日以降は運休扱いとなった |
青森駅と札幌駅を結んだ急行「はまなす」は、青函トンネルが開業したちょうどその日から運行が開始された。それまで青森と函館の間の移動は、津軽海峡を渡る青函連絡船や、海峡フェリーを利用する以外に移動手段がなかった。これらの船は夜間に運航する便もあり、その夜行便に変わる役割として「はまなす」の運行が始まったのだった。
下り青森駅発は22時18分、函館駅着が深夜0時44分、札幌駅には6時7分に到着する。また上りは札幌駅発22時、函館駅着が2時52分、青森駅着5時39分に到着した。夜間に津軽海峡と、北海道内の移動ができて非常に便利な列車だった。
筆者も乗車した経験があるが、札幌から深夜に帰る会社員だったのだろう。寝台ベッドで横になって仮眠し、下車駅が近づくと身支度して降りていく人が多かったように記憶している。
【名列車の記録②】座席車と寝台車の〝混合編成〟で走る
「はまなす」の客車編成を見ておこう。運行最終時期の編成は、基本客車7両で運行された。客車の屋根はふぞろいで、寝台車と座席車で大きく違っていた。屋根の上にクーラーがあるのが14系座席車で、5両連結されていた。
そのうち、3号車と7号車の2両が自由席の座席車。5号車と6号車が特急のグリーン車用の座席を取り付けた「ドリームカー」で、こちらは指定席となっていた。さらに4号車は「のびのびカーペットカー」で、カーペットが敷かれたスペースがあり、寝具も提供された。指定席料金で、寝ながらの旅が可能とあって、人気があった。一部に女性専用のスペースも用意されていた。
屋根上にクーラーの突起がなく平たいのが寝台車で、1号車と2号車に14系と24系客車が一両ずつ連結されていた。ちなみに「はまなす」の14系は、元24系で、24系に電源装置を取り付け14系に改造されたものだった。14系・24系寝台車には開放2段式B寝台がずらっと並んでいた。ブルートレインなどでおなじみだった2段式ベッドで、こちらの利用の際は寝台料金が必要となった。
14系および24系の客車の牽引は、青森駅から函館駅までがED79形交流電気機関車が牽引、函館駅で方向が変わり、同駅でDD51形ディーゼル機関車に付け替えられ、札幌駅まで牽引を行った。DD51は北斗星仕様で、特急「北斗星」、特急「トワイライトエクスプレス」と同じ牽引機だったが、他の寝台列車が2両連結の重連で牽引を行ったのに対して、「はまなす」は1両のみで牽引が行われていた。
急行「はまなす」は夜間に走る列車ということもあり、眠っての移動を目的にした利用者が大半だったが、下り上りとも春から初秋にかけては、車窓風景を早朝に楽しむことができた。終着駅が近づくころ、外を見ながら寝起きの時間を過ごす格別な楽しみがあった。
【名列車の記録③】上り列車からは津軽海峡線の朝が楽しめた
早朝に見える風景を走行写真で追ってみよう。
日本最長の青函トンネル53.85kmに入る時間は、下りが23時過ぎ、上りが4時15分ごろだった。起きているのがややつらい時間帯だったが、起きている時には窓の外や、後端車のデッキからトンネルの途中の海底駅を示す明かり、またトンネル内を照らす最深部の緑色のライトが確認できた。トンネルに入って約40分で出口を出る。上り列車の場合には薄明かりの時間帯になるので、外が見える確率が高かったが、それでも日が長い季節でないと難しかった。
上の写真は、青函トンネルの青森側出口からまもない中小国信号場から、最初の駅の中小国駅までの区間で、廃止される前年の5月に撮影したもの。通常時は5時10分ごろの通過予定だったが、この日は列車が遅れたこともあり、朝陽がややのぼり、田植えが終わったばかりの水田が〝水面鏡〟となって列車の姿が写り込んだ。この日もそうだったが、廃止1年ぐらい前からは、沿線には同列車を写そうという人が多くカメラを構えていた。
中小国駅の一つ先が蟹田駅だ。ちなみに蟹田港からは陸奥湾を横断するむつ湾フェリーが下北半島の脇野沢へ向けて出航している。
蟹田駅では2分ほどの運転停車で、5時14分に発車する。駅からまもなく陸奥湾が見える海岸線を走るようになり、次の瀬辺地駅(せへじえき)へ向かう途中では陸奥湾の眺望が楽しめた。朝陽に輝く海岸線と沖に浮かぶ漁船といったのどかな風景が思い出される。
瀬辺地駅からは、ほぼ陸奥湾に沿って点在する集落を左に見て走る。そして5時39分、青森駅に到着した。意外にビジネスでの利用客が多いようで、ホームから足早に去っていく人が目立った。
【名列車の記録④】下り列車は千歳線の原生林を眺めつつ走る
札幌駅行きの下り列車の場合には室蘭本線の登別駅付近から徐々に外が見えるようになってくる。寝台特急「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」は登別駅に停車したが、「はまなす」は下り列車のみ停車せずに走った(通過4時31分ごろ)。このあたり、前者は観光用特急であり、「はまなす」はビジネス利用および、東室蘭駅からの通勤客が主体だったこともあったのだろう。
苫小牧駅が5時1分着、その後、千歳線へ入るが、同線内では南千歳駅(5時24分着)、千歳駅(5時29分着)、新札幌駅(5時55分着)と停車しつつ札幌駅を目指す。
千歳線は、新札幌駅付近からは急に住宅が増え、札幌の近郊住宅地の趣が強まるが、そこまでは、駅付近には民家があるものの、北海道らしい原生林が連なっている。
下記の写真は西の里信号場でのもの。同信号場は、新千歳空港開業に合わせて下り、上りとも追い抜きが可能なように設置された信号場だ。千歳線では北広島駅〜上野幌駅(かみのっぽろえき)間に位置するが、札幌駅までわずか20分のところに、周囲を原生林で包まれた自然豊かなところがあるのが、いかにも北海道らしかった。
西の里信号場付近の自然林を眺めつつ、上野幌駅を5時52分に通過、次の新札幌駅に到着した。地下鉄東西線の乗換駅ということもあり、かなりの人がおりていった。やはりこの列車は早朝に会社へ行きたいという人には格好の列車だったようである。札幌市内の住宅地を左右に眺め6時7分、札幌駅に到着した。
さて、廃止されて早5年。代わりとなる列車があるのか時刻表を見るとほぼないことが分かった。
現在、東室蘭方面からの札幌駅行き始発列車は、5時40分東室蘭発の特急「すずらん1号」で、この列車を利用すると7時13分に札幌駅に着く。6時台には到着できない。
一方、逆方向の列車は、22時ちょうど札幌駅発の特急「すずらん12号」が東室蘭駅まで走る最終列車で、東室蘭駅に23時31分に着く。ただし、その先、函館方面へは走らない。つまり「はまなす」のように札幌方面へ早朝に走る列車は消え、また逆方向も途中までで、その先の函館駅へはもちろん、海峡を渡って青森駅へ向かう列車はなくなってしまったのである。
北海道新幹線の開業により、消えてしまった急行「はまなす」。同列車を頻繁に利用していた人たちは、どのように道内や海峡越えをしているのだろうか。列車の廃止が道内での移動に微妙な陰を落としているように感じた。
【名列車の記録⑤】津軽海峡を越えて走った485系「白鳥」
深夜・早朝に青函トンネルを越えて走った急行「はまなす」や、「北斗星」などの寝台特急に対して、日中に津軽海峡を走った列車といえば特急「スーパー白鳥」「白鳥」が代表的な列車だった。列車の大半がJR北海道の789系だったが、混じってJR東日本の485系も走っていた。
「白鳥」という列車名の歴史は古い。特急として走り始めたのは1961(昭和36)年のことで、当初は大阪駅〜青森駅間と大阪駅〜上野駅間(直江津駅まわり)を走るディーゼル特急として誕生した。直江津駅で両列車が分割併合、直江津駅〜大阪駅間は一緒に走ったユニークな列車だった。同「白鳥」は2001(平成13)年3月2日に一度、消滅している。
その1年後の2002(平成14)年12月1日から走り始めたのが、特急「スーパー白鳥」と「白鳥」だった。当時は東北新幹線が八戸駅止まりだったために、八戸駅〜函館駅間での運行が行われた。東北新幹線が新青森駅まで延伸した2010(平成22)年12月4日以降は、新青森駅〜函館駅間の運行となった。
ちなみに、JR北海道の789系で運行した特急が「スーパー白鳥」であり、JR東日本の485系を利用した特急が「白鳥」だった。新型789系には〝スーパー〟が付き、485系はやや古かったせいか〝スーパーなし〟の扱いだったのである。
「白鳥」に使われた485系は国鉄が生んだ名車両の一形式と言って良いだろう。生まれは1964(昭和39)年と古い。直流、交流50Hz、交流60Hzの3電源に対応する特急形電車として誕生した。1979(昭和54)年までに計1453両の車両が製造され、列島各地で活躍した。
「白鳥」に使われた485系はリニューアルされた車両だったものの、形式が少し古いこともあり、JR北海道の789系と〝差〟を付けられたのである。とはいえ485系は津軽海峡線では目立つ存在だった。運行最終年には「スーパー白鳥」が8往復だったのに対して、「白鳥」は2往復と希少な列車でもあった。〝スーパー〟は付かなかったものの、鉄道ファンにとって、あえて乗りたい列車でもあった。
現在、485系の定期運行はなくなり、車両も大きく改造されたジョイフルトレイン用がわずかに残るのみとなっている。
【名列車の記録⑥】「白鳥」消滅とともに消えた希少な車両
「スーパー白鳥」の789系は、ノーズ部分と連結器部分が萌黄色(ライトグリーン)の塗装だった。「スーパー白鳥」「白鳥」は、急行「はまなす」とともに2016(平成28)年3月21日(22日〜26日間は運休扱い)に運行終了を迎えた。
その後、「白鳥」に使われた485系は引退となったが、「スーパー白鳥」に使われた789系は転籍し、札幌駅〜旭川駅間を走る特急「ライラック」となり、シルバー塗装の789系「カムイ」とともに活躍している。
実はこの「スーパー白鳥」にはとても希少な車両が使われていた。
785系が2両のみ「スーパー白鳥」に使われていたのである。785系はJR北海道が1990(平成2)年に新造した特急形電車で、当初は札幌駅〜旭川駅間用の特急として使われた。さらに札幌駅〜東室蘭駅を走る特急「すずらん」にも使われていた。
「スーパー白鳥」に使われた785系2両は、編成の組み換えで余剰となっていた車両で、2010(平成22)年4月に789系の増結用として改造された。789系の運転台が高い位置にあるのに比べると、785系は運転台が低く、平面な正面デザインで異彩を放っていた。他区間を走る785系はシルバーだったが、同増結車のみ萌黄色(ライトグリーン)の塗装で目立っていた。増結車だっただけに多客期にしか走らず、出会うことも少なかった。
こうした希少車だったが、2016(平成28)年3月21日の「スーパー白鳥」の運行終了でお役ごめんとなった。「ライラック」への転身はなく、3月末に廃車、9月には解体となった。名車両とは言いにくいものの、ちょっと残念な存在だった。
【名列車の記録⑦】重厚な姿が魅力だったJR貨物ED79形式
津軽海峡を越えて走った車両は北海道新幹線の開業とともに、大きく変わった。貨物列車を牽引する電気機関車も様変わりした。それまでの主力機関車といえばEH500形式交直両用電気機関車だったが、現在はEH800形式交流電気機関車に変更されている。
2016(平成28)年の北海道新幹線の開業に向けて徐々に変更されていったのだが、一方でその1年前に静かに消えていった貨物用機関車があった。JR貨物のED79形式交流電気機関車である。
ED79形式交流電気機関車は、青函トンネルの開業に合わせて造られた。まず1986(昭和61)年にED75形式交流電気機関車がED79形式交流電気機関車に34両改造されて旅客用・貨物用に使われた。その後にJR貨物により1989(平成元)年に10両が新造された。この10両(1両は後に事故で廃車)がEH500の運行を補助する役割を負って2015(平成27)年まで2両重連の姿で使われていたのである。
筆者はこの国鉄形機関車が2両重連で貨車を牽く姿にとてもひかれた。津軽海峡へ訪れるごとに、好んでこの車両を追っていた。その姿は何とも凛々しく写真映えした。
旅客用の赤い塗装のED79も写真映えしたが、最後のころはシングルパンタに変更されたのがちょっと残念だった。一方、貨物用のED79は旧来の交差式パンタグラフに加えて、濃淡ブルーの車体、運転席の窓部分のブラック塗装、運転室ドアのワンポイントの赤塗装と、いかにも重厚な貨物用機関車という趣が強く、絵になった車両だったように思う。
津軽海峡、函館湾、陸奥湾を背にして走る姿が記憶に残る機関車でもあった。国鉄形機関車の重連運転は、東日本では東北本線のED75形式交流電気機関車に続いて、津軽海峡線のED79形式交流電気機関車が消えた。さらについ最近には関西本線のDD51形式ディーゼル機関車が消滅した。
残るは中央本線を走るEF64形式直流電気機関車の石油輸送列車のみとなっている。こちらも後継のEH200形式直流電気機関車の導入が取りざたされている。老朽化が忍び寄る国鉄形車両とはいえ、名シーンともなっていた運行風景が消えていくことには一抹の寂しさを感じざるを得ない。