おもしろローカル線の旅51 〜〜天竜浜名湖鉄道 天竜浜名湖線(静岡県)〜〜
静岡県の掛川駅と新所原駅(しんじょはらえき)を結ぶ天竜浜名湖線。天竜川の中流域を走り、奥浜名湖の美景に包まれるように走る。天竜浜名湖線という路線名よりも、略した「天浜線(てんはません)」の名で呼ばれることが多い。
この天浜線、多くの駅や橋、施設が昭和初期に開通した当時の姿を残している。列車を取りまく風景は昭和のイメージそのものだ。今回は静岡県内をのんびり走る天浜線で、おもしろローカル線の旅を楽しんだ。
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【天浜線の秘密①】東海道本線のバイパス線として誕生した
天竜浜名湖線は国鉄二俣線(ふたまたせん)として1935(昭和10)に一部区間が誕生、1940(昭和15)年に全通した。
当初、二俣線の計画は掛川駅から三河大野駅(飯田線/愛知県新城市)を経て、岐阜県の恵那地方まで至る遠美線の一部として計画された。当時の日本は戦時色が濃くなりつつあった。満州事変が1931(昭和6)年に勃発、それ以降、欧米諸国との対決姿勢が強まっていく。
当時、遠州灘に沿って走る東海道本線は、列島の大動脈とも言える重要な路線だった。もしこの路線が敵から攻撃を受けたとしたら……。そうした軍事的な理由から、掛川駅から天竜二俣駅(開業当初は遠江二俣駅)を経て、新所原駅を結ぶ現在のルートに変更。東海道本線のバイパスルートとして、急きょ建設されたのだった。
その後に起きた太平洋戦争では、軍艦による艦砲射撃よりも、飛行機による攻撃が主体になっていった。後世の人間が考えれば、建設自体に疑問を感じる。バイパス線として果たして二俣線は役立ったのだろうか。
1944(昭和19)年12月の発生した東南海地震の時、さらに翌年7月末の浜松空襲で東海道本線が不通になった時に迂回路として利用された。浜松空襲では米英連合軍の戦艦による艦砲射撃も行われていた(この時の目標には国鉄浜松工機部も含まれた)。全線、単線ということもあり、迂回運転も大変だったことだろう。とはいえ戦時下にしっかり役立っていたのだった。
路線が誕生して40年あまり、国鉄分割民営化となる直前の1987年(昭和62)3月15日に国鉄二俣線は廃止された。同日に天竜浜名湖鉄道が生まれた。路線の名前も天竜浜名湖線となった。
ここで天竜浜名湖線の概要を見ておきたい。
路線と距離 | 天竜浜名湖鉄道・天竜浜名湖線/掛川駅〜新所原駅67.7km |
開業 | 1935(昭和10)年4月17日、国鉄二俣線として掛川駅〜遠江森駅(現・遠州森駅)間が開業。徐々に延伸、1940(昭和15)年6月1日に全通 |
駅数 | 39駅(起終点を含む) |
【天浜線の秘密②】昭和初期、天竜二俣まで走った鉄道があった
天浜線の路線の中ほどにある天竜二俣駅。天竜浜名湖鉄道の本社があり、また車両基地が併設され、天浜線では中心的な駅となっている。
かつて、この駅付近と東海道本線の磐田駅を結んだ鉄道路線があった。光明電気鉄道(こうみょうでんきてつどう)という鉄道会社の路線で、磐田駅近くの新中泉駅と天竜二俣駅近くの二俣町駅間、19.8kmを結んだ。
路線は将来的に、旧光明村(天竜川沿いにあった村/現・浜松市天竜区)まで延ばす予定で、そのために光明という名を名乗った。当時としては珍しい1500Vで直流電化された電気鉄道だった。1930(昭和5)年に二俣町駅まで路線が伸びたが、そのわずか5年後に電力会社への支払いがとどこおる状態に追い込まれ、送電停止となり、運転休止に追い込まれている。
開業当初からその計画は無謀なものだった。路線は古河鉱業の鉱山で採掘した銅鉱などの輸送を目論んで造られたが、駅と鉱山との距離が遠かったことから古河鉱業に利用を断れてしまう。にもかかわらず最新電車を発注してしまうなど、経営もずさんだった。今では考えられない話ではある。当時は大きな開発話を持ち出して、出資者を募り、ほどなく破産、という信じられない鉄道経営を行う人たちがいたようだ。
ちなみにこの光明電気鉄道の廃線跡が、その後の国鉄二俣線、現・天浜線の一部敷地として使われている。電車が走らなくなった5年後に、国鉄二俣線の路線が遠江二俣駅(現・天竜二俣駅)まで延ばされたのだった。