ライフスタイル
2019/5/1 21:00

現在、81歳。鈴木史朗、アナウンサー人生を振り返る1万字インタビュー

かつて一世を風靡したTBSのバラエティー番組「からくりテレビ」の名物コーナー「ご長寿早押しクイズ」で、面白真面目な司会でお馴染みの鈴木史朗アナウンサー。その謹厳実直なまでのアナウンススタイルそのままに、現在では歌手・ゲーマー・講演とマルチな活躍を行い注目を集めている。そんな鈴木氏も、現在、81歳。アナウンサー人生を振り返ってもらった。

(企画、撮影:丸山剛史、執筆:薬師寺)

ーー各界でご活躍していらっしゃる人生の諸先輩方に、生きていく上でのお知恵をお聞きしたいということで、鈴木史朗アナウンサーにお話を伺いたいと思います。

鈴木氏 現役といってもこの歳ですからね。なるほどそれなら言いたいことはそうですね、苦労すればするほど果実は大きいと、だから色んな辛い苦労は若い時にいっぱいしてください。いずれ自分が達したい所に達することが出来るということですね。ほとんど初めから言いたいこと言っちゃいましたけど(笑)

 

ーーお生まれは京都でらっしゃいますね?

鈴木氏 そうです。京都で一番古い上賀茂神社という神社を代々守護する社家という武士の家系に昭和13年の2月10日に生まれました。当時は父が中国の北京の方へ仕事で行っていまして、それを後から家族で追いかけていきましたから、1歳半か2歳で中国へ渡ってずっと終戦まで北京と天津で半々ぐらい暮らしていました。

 

ーー中国での暮らしぶりはどうでしたか?

鈴木氏 天津の日本人租界(居住区)がフランス人租界と隣り合わせにありまして、そこには幼稚園から小学校、中学校まであったかな。ちゃんとしたもんで、街も整然としていましてね、そこにある日本人だけが入れる(住める)民団アパートに住んでいました。その租界からわずか運河ひとつで中国人街ですから、中国人との交際もできまして、中国人の少年と仲良くなったり、中国人街にも行ったりしました。

 

当時は日本人に対する好感度が高かったですから、中国人も日本人街にいましたけど、悪さするとか一切ありませんでしたね。南京攻略戦の後の南京にも行きましたが、父が日中の貿易会社をやっていた関係で、日本軍を通じて食糧とか物資が不足していた南京市民に色々と提供していたこともあって、大歓迎されたことを覚えています。だからあんなもの(南京大虐殺)はあり得ないですね。そのことは僕が「ご長寿クイズ」で1万5000名近くのご老人に会ってお話を聞いて、特に日中戦争に参加された方のお話を聞いても僕のその経験とピッタリ一致しますし、そのことは30年前から講演先でも言っています。これはNHKの映像にも残っていますけど、南京の攻略戦で日本軍がいくと拍手で迎えられたっていうんですね。私もそれは実感としてありますね。

 

ーー戦後は一転して引き上げる時に苦労をされたとか。

鈴木氏 酷かったですね。中国人というのは超現実的というのか、とにかく全ての財産をよこせと、今まで使っていた使用人から全部くれっていうんですよ。もちろん、持って帰れないからあげましたけど、持って帰れるものはなんだったかな。身の回りの服と僕が母親に頼まれた、母が父から結婚記念にもらった毛皮のブーツを、捨てるに忍びないということで、ちょうど僕の足に合ったんで母に頼まれて履いて帰ってきたんです。暖かくてよかったですけどね。

 

ーー北京から天津まで歩いて引き上げたんですね

鈴木氏 はい、途中は屋根のない無蓋列車に詰め込まれて少し移動しましたけど、それ以外はほとんど歩きですね。3歳と4歳の妹の手を引いていましたから、その間にも何回も検閲があって何回もめぼしい持ち物を没収されるわけです。親父はスパイ容疑で逮捕されまして、(もちろん無実です。財産没収の為の言いがかりです)一緒に帰れなかったものですから、親父の変わりにともかく重い荷物を背負って歩かなければいけないわ、妹の面倒を見なければならないわ、7歳の少年がえらいめに会いました。そんな思いして、命からがら帰ってくるわけですね。本当に酷いもんです。

 

ーーご家族でお亡くなりになられた方もいらっしゃるとか

鈴木氏 一番下の妹が亡くなりました。乳飲み子だったんですが、妹はまるで天命を知っているようでした。我々の苦労を察するように亡くなった時は泣きましたね。

 

ーー命からがら日本に戻られて京都で生活を立て直すのはこれまた大変だったんじゃないですか?

鈴木氏 京都には実家が残っていまして、父の母が元気だったものですから、そこに居候で、京都が戦火を受けなかったので、それには助かりましたね。とにかく我々に渡されたのは、1人頭千円ですから、5人で5千円か。今でいうと千円は1万円ですから、5万円でやっていけっていうわけですね。その5万円で多少は食いつないでいけましたね。着の身着のままで何も買えなかったですね。そこから小学校に入り直しました。

 

ーーどんな少年だったんですか?

鈴木氏 当時周囲には京都弁ばかりなのに僕は大陸育ちですから、僕だけ標準語がしゃべれていたために、学校でも目立った存在になりまして、そのおかげか小学校では児童会長に選出されたりしました。とにかくきれいにしゃべりますから、学校のみんなが敬意を表してくれていたので、先生が呼びかけても静まらないのに、僕の一喝で静かになってくれるから、あなたがいると非常に助かると先生方が喜んでくれましてね。こうして小学校で人前でしゃべる自信と勇気をつけていただいて、そのまま中学でも生徒会長でした。

 

ーー小学生の時にアナウンサーに憧れるきっかけとなる体験をされるんですね。

鈴木氏 小学校の4年生の時にNHKの和田信賢(しんけん)アナウンサーのエッセイを読みまして、ちゃんと世の中に尽くすことのできるモノを持った人がアナウンサーになるべきであるとの一節を読んで、感激しましてアナウンサーをやろうかって思ったんです。標準語を良くしゃべるし、上にあがって演説ができるというようなことで、その時から子どもなりになにか人前で表現することを覚えたんですね、だから和田信賢さんの本を読んで、そうか将来はアナウンサーになろうって思うんですね。

 

ーーその和田信賢アナウンサーも早稲田の先輩になる方ですね。

鈴木氏 そうなんです、色んな意味でご縁があったんでしょうね。その後に早稲田に入学して放送研究会に入るんですが、その前に、中学で陸上競技をしてキャプテンをしていまして、特に100㍍走では良いとこまでいったもんですから、早稲田の競争部(陸上部)に入るんですが、当時10秒3で走る選手がいて、お前100メートル何秒で走るんだ? はい11秒1でありますって言ったら、あぁ~なんて軽くあしらわれて(笑)ガクッときたましたよ。ガクッときてちょっと落ち込んで、校内を歩いたら放送研究会アナウンサー募集というのを見つけて、あっこっち行こう! って入会したんです。

 

そして放送研究会に受けに行ったら大変感じが良かったですね。でも確かその時4人採るのに200人ぐらい応募していまして、えらい競争率でびっくりしましたよ。でもここでも私の標準語が役にたちまして、この声で入れたんですね。男性は3~4人ですね。女性もやはりそれぐらいでした。そこでは同期でアナウンサーを目指す連中が集まって、4年間研修をするわけなんです。NHKに行った先輩に徹底的にしごかれました。いまから思うとかなりのしごきでしたね。あいうえおの発声から始まって、ニュース、朗読までですね。徹底的にやられました。いま思えばプロの養成所みたいですね。

 

ーー放送研究会では後のフジテレビアナウンサーの露木 茂さんやTBSアナウンサーとなる大沢悠里さんもいらしたんですね。仲はよかったんですか?

鈴木氏 仲は良かったですね。当時2年後輩に大沢悠里がいたんですがまともにニュースを読めるタイプじゃなかったんですよ(笑)。これはだめだ、お前大丈夫かって感じだったんですけど、ただ話が面白かった。だからディスクジョッキーなら大丈夫だろって、彼もそのことは判っていたんですね。逆に露木はニュース専門でしたけど、露木といえば当時は女の子にモテましたね、早稲田の同期の女の子で一番綺麗でスタイルの良い女の子がいまして、ちゃっかりとモノにしましたがそれがいまの奥さんです。

 

ーー鈴木さんは?

鈴木氏 僕は全然だめでした。だめっていうか当時の早稲田の女性は、露木の奥さんになった彼女以外全て早稲田的容貌でしたから(笑)。恋愛の対象にならなかったですね。みんな頭は良かったんですけど、あんまり恋心を抱くような人はいなかったですね。

 

ーーでは恋愛体験はどちらで?

鈴木氏 僕はアルバイト先ですね。デパートでアルバイトしていまして、綺麗なお嬢さんいっぱいいますから、ほのかな思いを抱いて、喫茶店に誘ったのが関の山です。後はなにもできませんでした。皇居前を歩いてもなにもできませんでした。皇居前にいくとカップルが、木陰でラブシーンやっていますけど、それを横目で見ながらまじめな話をしていました。それじゃダメですね(笑)

 

ですから本格的な恋愛体験はやっぱり就職してからですね。自分の父が日本に帰ってきて自分でも会社をおこしましたけどなかなか大変で、家計を助けるために自分がアルバイトしないといけないこともあって、自分の学費を稼ぐのと放送研究会で手一杯でしたから。でも奨学金はいただきました。ですから奨学金とアルバイトで早稲田を卒業しました。さっきも言いました皇居前を歩くだけの真面目ななんというか昔の日本男児ですね。でも露木だけは違いましたけど(笑)。

 

ーーTBSの入社試験でもその声で得したとか

鈴木氏 当時はフランク永井さんが人気で低音がブームでしたから、低音で綺麗な声を出すと点数が高かったんじゃないでしょうか。いまは声がダメになっていますが、昔はもっと綺麗な低音が出ていましたから。マイク乗りも良いし、ということがあったんでしょうね。

 

さっきも言いましたが、放送研究会で徹底的にしごかれたおかげでTBSの入社試験の時には、桁外れの倍率でしたけど残ったんですね。僕は最終で身体検査通って、男性3人採った中に入れたんですね。結果は最高点を頂いてトップで入りました。ところがそれからが苦労でした。というのが、本来ならアナウンス部の部長がアナウンス部で個別に試験をして合否を決めるところだったのが、この年は例年になくTBSが10周年記念だったものですから、全局から審査員を出してその合計点で審査したのですが、肝心のアナウンス部の部長は僕に最低点をつけていたんです。

 

なんでも自分が軍隊でいじめられしごかれた軍曹に僕が声も顔も似ていたからっていうんです。だから僕には入社してほしくなかったんですね。不幸ですね。それほど軍隊のしごきって辛かったんでしょうけど、当時の部長としては我慢ならなかったんでしょうね。それからは何とか他の営業や制作部に出そうとイジメが始まるんです。

 

ーーどんなイジメですか?

鈴木氏 具体的には差し控えますが、いやあこれは参りましたね。部長がそう思っていたんならそれに準じる部下はいますから。でも僕に対して同情的な人もいてくれて、その人達のおかげでアナウンス部に何年いたのかな、7年ぐらいいることができました。

ーーそんなアナウンサー新人時代にケネディー暗殺の速報をラジオ番組「朝のひととき」で速報されていますね。

鈴木氏 当時は入社2年目でしたね。早朝の生番組で、自分でレコードを選んでかけながらワンマンジョッキーですから大変でした。そこに突然ケネディー暗殺のニュースが入ってきまして速報しました。

 

ーーいま聞くとすごく大事件なのに淡々とした語り口なのに驚かされます。

鈴木氏 まだ未熟だったこともありますけど、一生懸命でしたからね。

 

ーー7年目に転機が訪れるんですね

鈴木氏 そうなんです。ある時、人気番組の「TBS歌のグランプリ」という番組の制作部から直接オファーが来まして、部を通すと部長に潰されるといって、直談判で僕を引き抜いたんですね。いきなりスタークラスの仕事が来たんですが、お前はそんなに制作が好きなのかって、変な理屈で、そのことが決定的に部を出される原因になってアナウンス部から制作部へ異動になりました。

 

ーーその後も色々な部に回されて一番辛かったお仕事はなんですか?

鈴木氏 一番辛かったのは著作権部ですかね。法学部出身でしかも成績がよかったものですから、こいつ使えるじゃないかって、東大法学部出身の部長が僕を引っ張ったんです。良い迷惑ですね。でも僕のこと可愛がってくれましたね。それは部長から自分の体があんまり貧弱で女房にバカにされるからなんとかならないかって相談を受けたので、自分が早稲田時代にバーベル上げたりしてウエイトトレーニングをしていたもんで、任せてください。やりましょうって、著作権部の部屋が機密性の高い書類を扱う関係で、各部室から独立していることをいいことに、バーベルとかベンチを持ち込んで部長を鍛えてあげたら、喜んでくれたことがきっかけですね。

 

ーー具体的にはどんな辛いお仕事ですか?

鈴木氏 まあ色々な仕事がありましたね。著作権関連の整理と、後はギャラの設定ですね。新しくタレントが出ますと、民放5社が集まって、プロダクションとギャラの交渉するわけですね。このタレントギャラいくらにする? まあ賃上げ交渉みたいなものですね。誰々をいくらにしてくれ、困る、まだ実績がないとかね。5社の連中とは仲良くなりましたけどね。5社それぞれの担当者の連携がありまして、僕は割と優しい方でしたけど、例えば、僕がなんとかしてあげたいけどちょっと無理じゃないかなって言うと、ベテランの他社の担当者がビシッと決めてくれるわけです。あれは有り難かったかったですね。

 

ーー報道部にもいかれてますね

鈴木氏 後から、来た副部長が報道出身で、僕の報道に向いていることを見抜いてくれて、お前は報道行った方がいいよって、そのおかげで部長も好意的にお前を出して上げたいと言ってくれたんです。もっとも部長としては僕がいても役にたたないと判っていたんでしょうね。だから部長も喜んで報道に出してくれたわけなんです。

 

それからが僕の本領発揮ですね。思い出すのはロッキード事件と昭和天皇崩御に伴う大喪の礼ですね。特に大喪の礼では一生懸命やりましたから思い出深いですね。とにかく大変な勤務を随分させられましたね。泊まりは週1回。徹夜勤務もけっこう長かったんですよ。つまりあちこち飛ばされることによって、各部署でキャリア積まないといけないでしょ。だから新しい部署だと1年生から始めるわけですから、しんどい仕事がみんな回ってくるわけなんです。新米扱いになるわけなんです。徹夜勤務は報道に行ってもやらされましたから。長かったですよ、辛かったですよ。でも明けは休みですから。これは有難かったです。明けの10時になったら後は自由ですから。だから週3日休みなんですね。

 

なんだかんだけっこう報道部の部長には気に入らましたね。部長はタバコが嫌いだったんですが、部内では部長と私以外全員愛煙家で、そこで僕はこれはいかんと、当時珍しい嫌煙権というものを確立してやろうと、たばこの害という特集を夕方のワイドショーでやったんです。

 

嫌われましたね。部内全員から(笑)。でも徹底してやったんです。でも大変評判が良くて、特に部長は大変評価してくれましたね。番組としては成功しまして、そこから嫌煙権が生まれたんです。いまでも私が嫌煙権の先駆けと自負していますね。ただ愛煙家からは反発を食らいまして、まさに煙たがられましたね(笑)。でもここでも弱気を助け、強きをくじく私のサムライ根性が出てきまして、負けるもんかになちゃうんです(笑)。それでまた飛ばされるわけなんですね。

ーーまた飛ばされるんですか!?

鈴木氏 今度はTV制作局というところですね。そこで当時大スターの高橋圭三さん付きになるんですね。

 

ーー元NHKで日本初のフリーアナウンサーの高橋圭三さんですね。

鈴木氏 アナウンサー出身である、制作もできるということで、「圭三訪問」という番組を引き受けて色んなところをまわりましたね。その中でもヒットしたのが、「昭和のお姫様」っていう企画で、ホテルニューオータニの庭に各大名の血筋の方を集めまして、何十人ぐらい集まったかな、30人ぐらい集まったかな、そこでひな壇にして記念撮影しました。とにかく一生懸命やりましたね。

 

ーー著作権管理するよりは合ってたわけですね。

鈴木氏 全然あってましたよ。これも運ですね。なんか辛い思いしても初期の思いは達成されるわけですね。元々僕は器用にご機嫌を取れなかったですから、弱気を助け強くをくじくみたいな母から叩き込まれた武士の教えが根幹にありましたから、気持ちがどうしても顔に出ちゃうんですね。割と言う方でしたから、ついつい真面目なサムライ根性が出ちゃうんですね。そのおかげでかわいがれたこともあったけど、イジメられたことも多かったですね。

 

ただ気に入った好きな上司とは仲良くできるんですけど、だから僕の味方になってくれる方も結構いらっしゃいました。

 

ーー決して自分を曲げなかったんですね。

鈴木氏 そうですね。「最後は絶対にニュースキャスターになってやる」です。

 

ーーこの時点でTBSに入社してから気持の変化はありましたか?

鈴木氏 変化は無いですね。著作権の仕事も嫌だ、制作の仕事も嫌だ、でも俺はアナウンサーに戻るんだ。いずれアナウンサーをやるぞ。絶対戻ってやる。という気持だけですね。

 

ーーその気持ちに合った積極的な行動は起こされたんですか?

鈴木氏 かといって積極的なことはしなかったですね。なんでしょう? やっぱり戻りたいという気持は自分の行動やなにかから自然と現れますから。でも解ってくれたかつての先輩である放送研究会の部長がアナウンス部の部長に就任して、48歳の鈴木を戻してやろうと思ってくれた事が幸運だったですね。ただ、自分のアナウンス力が落ちないようにはしてましたね。刀は研いでいました。いつでも抜けるように。

 

ーーそれはどんな練習ですか?

鈴木氏 練習は特段していませんね。意外とやっていなかったですね、めんどくさいですからね。意外と怠け者ですから。普通に仕事をやっていれば僕はしゃべれると。天性のものでしゃべれるんだ。戻ればすぐにニュースは読める。好きな本読んで、好きなことをしていれば良いと思っていました。

 

ーーキャスターとして心がけていたことはなんですか?

鈴木氏 一生懸命ニュースを伝えることですね。聞きやすく、わかり易く、そして親しみを持てるように。笑顔は作れませんけど、それに近いものが読みながら出せればいいなって思っています。つまりアナウンサーというのは人前に出て、良い感じを与えなかれば僕はダメだと思う。

 

ーー逆に印象薄い方もいらっしゃいますね

鈴木氏 薄いは薄いなりに使えますけどね。薄いから逆に役に立ってるアナウンサーもいますから。とにかく悪い印象はよくないですね、全国のお茶の間に行くわけですから、お邪魔させていただくだけに礼儀と感じ良さをもたないといけませんね。

 

ーー最近ニュースで感情を出すアナウンサーがいますが?

鈴木氏 うぅ~ん、女性でいますね、視聴者が共感できる感情なら良いと思います。

 

ーーそんなアナウンサーの現状をどうお考えですか?

鈴木氏 安心して見られるニュースにして欲しいですね。余計なものが気になるのは困りますね。

 

ーー48歳でニュースキャスターに復帰した時のお気持は?

鈴木氏 最後は報道にもどって、夜の11時からの「スポーツ&ニュース」という番組でスポーツの脇でニュースを読むんですが嬉しかったですね。つくづく人間というのは出会いだと思いますね、特に人を見抜く人と出会うことですね。

 

そういう意味でいくと、ニュースを読んでいる私の姿を見てちょうど東京進出しようとする鶴瓶さんが、この真面目そうなおもろいオッサン突込みどころ満載やって言って、「世界ナンバーワンクイズ」という番組の解説者に起用して頂いたことも出会いですね。最初はなんで私がって思いましたが、そういうバラエティー番組もやってみたかったのもあってお引き受けしたんです。そこで散々遊ばれましたね。なんかあると解説に引っ張り出されて、鶴瓶さんが質問する、そして私が真面目に解説すると笑いにもっていく、天才でしたね。巧かったですね。だから散々笑われました。

 

ただ、こちらは真面目に解説してるだけなんですけど、笑われる。別に悪い気はしなかったですね。その番組が認められてその後の「ご長寿クイズ」につながるわけなんですけど。当時もいまもそうですが、笑いを取ろうとか受けを狙ってとか一切しないで、ひたすら真面目に解説していましたが、それが良かったのかもしれませんね。そのことは、その後にご一緒にお仕事する明石さんまさんやビートたけしさんや所ジョージさんとご一緒しても変わりませんでした。

 

しかしまあ、自分の半生を振り返れば苦労続きでしたね。人生には色んな苦労があると思いますが腹も真っ二つに切りましたしね。

 

ーーお腹を真っ二つ!?

鈴木氏 中学生2年生の時かな盲腸が悪化しまして、陸上競技でハイジャンプやって、ちょうど盲腸のあたりを下にして落ちていくベリーロールという飛び方があるんですが、落ちたら砂場に砲丸投げの砲丸を置いたままにしてあって、それが盲腸の患部に当たり破裂したんでしょうね。炎症と猛烈な腹痛が起こりまして。たまたま飛び込んだ医者が藪医者で、これは回虫だっていって虫下しを飲まされたんです。それでもっと酷くなって、これは大変だと今度は親父の紹介の親戚の医者のところに行ったら、激痛と嘔吐を繰り返す私を見て、すぐ入院だって即手術になったんです。

 

それが当時は麻酔の良いのが無くて、その医者が元軍医だったんですが、「お前は日本男児だろ」「ハイ、日本男児であります」「じゃあ痛くない」って言うと私の手足を鎖でベッドに縛り付けるんですよ。えっ!なんだこれは!っ思ったら、かなり酷いからお前の腹は真っ二つに切るからって、麻酔無しで真ん中からグワッーっと。痛いは苦しいは、腸をひっぱり出す時も切るのも全部判るんですよ。

 

 

ーー切腹ですね。

鈴木氏 切腹ですよ。その時は武士の本懐を遂げました(笑)。あまりの酷さに2ヶ月間それから寝たきりになりました。そのときに鼻からゴム管で栄養を入れてましたから、こんなに鼻の穴がひろがちゃったんですよ。拷問ですね。でも武士の魂ですね。いかなるものも我慢する。

 

ーー鈴木さんは我慢の人だったんですね。

鈴木氏 我慢我慢、我慢してここまできましたね。何の苦労もなくニュース読んでいるように思われがちですけど、私の半生は我慢の連続でした。

 

ーー鈴木さんは色んな苦労のパターンを持っていらっしゃるんですね。

鈴木氏 そうですね。全部持っていますね(笑)。だからこそ若い人には辛いことは栄養になる頑張ってくれと。辛ければ辛いほど君には良い実りがあるんだよって。我慢すれば大丈夫、逃げるなよって。

 

ーーひょっとして我慢の仕方があるんでしょうか?

鈴木氏 あるでしょうね。僕はなんなんだろう? ただ俺は絶対に幸せになるんだという思いですね。絶望しないことです。絶対に絶望してはいけません。私も絶望の状況に随分と追い込まれましたけど、全部自分の幸せのためと思いました。

 

ーー楽天的だったんですかね。

鈴木氏 どこか楽天的なところがあったでしょうね。後は臥薪嘗胆、捲土重来ですね。必ず良い事が起こるから我慢しろ。日本人はいま色んな意味で恵まれていて幸せで僕も嬉しいんですけど、もうちょっと苦労した方が良いかなって時々思いますね。でも、そんな苦労はさせたくたい。孫なんか見てるとね、そんな矛盾した思いがありますね。必ず幸せになる、なれると思うことです。とにかく若いころは苦労の連続でした。やっと平穏の時間が来たと思ったのが定年後の70歳過ぎてからかな、80歳過ぎて平穏無事に好きな本を読んで、好きなゲームやって好きな事言って、こうしてお話もさせて頂いて、有難いことだと思っています。

 

この我慢できるすべを中国の引き上げの苦労で手に入れましたから、大抵のことは我慢できましたから、だからこそ言えるのですが、冒頭にも言いましたが辛いことは栄養になる。頑張ってくれと。いまの若い人に言いたいのは、うんと苦労して自分で辛い思いをしても、やがて必ず欲しい果実が手に入るということですね。嫌なところに実は大事なものがあるんだと思いますね。

 

企画、撮影:丸山剛史、執筆:薬師寺