本・書籍
2020/12/24 6:30

怖くて、寂しくて、心の奥底が痛くなる−−吉田修一が「生きる意味」を問いかける『犯罪小説集』

毎月、数回は飛行機に乗る。時には毎週……。神戸の自宅から東京の夫の実家に行き、義母を見舞い、事務の用事を片付けるためだ。今や日常となっている上京なのに、何度乗っても慣れない。チェックインも、保安検査場も、待合室も、いつも何だかビクビクしてしまう。犯罪を犯しているわけでもないのに、意味もなく「すみません」と言っている。ブーツを脱ぐよう言われ、「あ、すみません」、搭乗の順番を間違えては「きゃ、すみません」の連続だ。

 

そんな私だが、機内のシートに座るや、別人のように落ち着く。シートベルトを締めると、いそいそと機内誌を開き、吉田修一のエッセイ「空の冒険」を読み始める。私にとって「空の旅」とは「機内誌を読む旅」に他ならない。

 

吉田修一のエッセイと小説

ところが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、機内誌が座席前ポケットから消えてしまった。以前は、飛行機が離陸体制に入るや「空の冒険」に没頭し、その後、他のページも丁寧に読み、着陸態勢に入ると、また『空の冒険』に戻るを繰り返していた。彼のエッセイを読むと「あぁ、なんかいいなぁ。心和むなぁ。落ち着くな、吉田修一」と感じる。

 

ところが、小説となるとこうはいかない。つまらないわけではない。大変、面白い。けれども、和むかというと、その反対で、心がかき乱され、ずず〜んと重くなることがほとんどだ。

 

とりわけ、『犯罪小説集』(KADOKAWA・刊)は、「空の冒険」を書いた同じ人の作品かと疑いたくなるほど、怖くて、寂しくて、そして、心の奥底が痛くなる。作品によっては、激しい痛みでうめきたくなる。それも、歯科医で詰め物をとられ、神経を触られたときのような熱感を伴った痛みなのだからたまらない。

 

中編、5作品の贅沢さ

『犯罪小説集は』、5つの作品からなっている。「青田Y字路(あおたのわいじろ)」「曼珠姫午睡(まんじゅひめのごすい)」「百家楽餓鬼(ばからがき)」「万屋善次郎(よろずやぜんじろう)」「白球白蛇伝(はっきゅうはくじゃでん)」の5つだ。

 

すべて、100枚前後の中編で、犯罪者とその周辺が驚くほど細かく書き込まれている。100枚をめいっぱいに使うと、こういう濃密な小説が出来上がるのだろう。ごく平凡な人間でも、こうした環境に置かれたら、次第に追い込まれ、犯罪を犯してしまうのかもしれないと思わせる何かがある。5つの作品の主人公は、性別も年齢もそれぞれだ。

 

「青田Y字路」の主人公は、25歳になる中村豪士。母親を手伝いながら、偽ブランド品を売っている。友達もいないし、ろくに口もきかない。どこにいるのだかわからないような人物だ。そんな彼が巻き込まれる誘拐事件とその残酷な結末……。

 

「曼珠姫午睡」は、48歳の主婦・英里子が主人公だ。ごく普通の毎日を送っていた彼女は、ある日、小学校の同級生・石井ゆう子が殺人を犯したことをテレビで知る。それからである。彼女の毎日に、微妙な変化が生じるのは……。

 

「百家楽餓鬼」は有名運送会社の御曹司・永尾。生まれながらの大金持ちだ。両親との仲もよく、妻とも愛し合っている。何の問題もないはずの彼がはまるギャンブルの罠。そして……。

 

「万屋善次郎」は、町工場で15歳から必死に働いた後、限界集落と呼ぶべき過疎の村に移り住み、養蜂業を営みながら暮らしている男の物語だ。村人たちにも受け入れられ、村おこしのためのプロジェクトに精を出す日々。それなのに、ほんのちょっとした誤解で、善次郎は村八分にされる。その結果、起こるおそろしい殺人事件……。

 

「白球白蛇伝」の主人公は、プロ野球の選手だった早崎弘志の栄光と転落を描いた物語だ。かつての栄光を忘れられない男の悲しみ。自分を特別な人間だと思い続けた早崎の人生と末路は……。

 

どこかでつながる5人

主人公の5人は、まったく別々の人生を歩んできた。ただし、どうしようもない鬱屈をどこかに抱えていることは共通している。だからこそ、何か邪悪なものに操られるように、間違った方向へと突っ走ってしまったのだろう。

 

犯罪など自分には縁がないと、人は思いがちだ。いや、たとえ思っていても、無理矢理、関係ないふりをして暮らしている。けれども、時に自分の中に犯罪者となる可能性があることに気づき、呆然と立ち尽くす。『犯罪小説集』は、そのあたりを容赦なく、突いてくる。

 

読み進むうち、主人公から何か言い様のない嫌な臭いが漏れてくる。顔を手で覆い隠し、その臭いをかがないように息を止め、なかったことにしたくなる。しかし、そうはいかないところが物語の力だろう。

 

映画・楽園の原作でもある

『犯罪小説集』の主人公たちは、それなりに一生懸命に生きている。人を殺すのを楽しんでもいない。だからといって、心が透き通るように純粋でもない。皆、どこかいびつで、自分に自信がなく、「やってられない」と毒づきながらも、食うために働き続ける。

 

目の前のことを解決するのに精一杯で、自分を建て直す余裕などない。そして、気づいたときは、信じられないような方向へ突き進み、犯罪を犯してしまう。そこが怖い。そこが悲しい。

 

5つの作品のうち、「青田Y字路」と「万屋善次郎」の二つの作品は、昨年、『楽園』というタイトルの映画になっている。主演は綾野 剛がつとめ、佐藤浩市、黒沢あすか、柄本明などが脇を固めている。別々の小説が、一つの映画としてまとめられるなんてと、最初は驚いたが、底辺に流れるどうしようもない思いは、5つの作品すべてに流れていることを思うと、これでいいのだと納得できる。

 

映画も小説も、やるせないほど重く、苦しい。しかし、どのシーンも生きる意味を訴えかけてくる。自分を輝かせたいと願いながらも、どうしていいかわからないまま、憂鬱に沈んでいるとき、5人の主人公のひとりが囁いてくれるかもしれない。「踏みとどまりなよ、環境に負けちゃ駄目だ」と。

 

【書籍紹介】

犯罪小説集

著者:吉田修一
発行:KADOKAWA

田園に続く一本道が分かれるY字路で、1人の少女が消息を絶った。犯人は不明のまま10年の時が過ぎ、少女の祖父の五郎や直前まで一緒にいた紡は罪悪感を抱えたままだった。だが、当初から疑われていた無職の男・豪士の存在が関係者たちを徐々に狂わせていく…。(「青田Y字路」)痴情、ギャンブル、過疎の閉鎖空間、豪奢な生活…幸せな生活を願う人々が陥穽にはまった瞬間の叫びとは?人間の真実を炙り出す小説集。

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