ライフスタイル
2020/10/28 19:00

20代女子のイマドキの生き方って? 清楚とロック、モデルとミュージシャン…「タカハシマイ」の2つの顔を“暮らしの編集者”が見た

著書『丁寧に暮らしている暇はないけれど。』がベストセラーとなった、編集者の一田憲子さん。「たとえズボラでも、いかに自分らしくこだわって、毎日を愛しんで暮らすか」を考え続け、自身のサイトでも発信している一田さんが、自身とは世代がまったく異なる20代の若い女性と出会ったら? 彼女たちなりの「自分らしい暮らし」へのこだわりと奮闘を、一田さんがレポートします。

【関連記事】
ズボラなりの“丁寧”でいい。話題の本『丁寧に暮らしている暇はないけれど。』著者の無理しない暮らし方
https://at-living.press/culture/14565/

 

人とは違う「私」になりたい。それが、人生の扉を開ける鍵────タカハシマイさん

「イチダさん、最近の20代は、半径2メートルのことしか興味がないんですよ」。え~!

「無理して頑張らないで、自分ができること、できないことを整理して、堅実に歩んでいくんです」。ふ~ん。

「努力はするけれど、1か月経って結果が出なかったら諦めるんです」。なんと!

 

「サイキンノワカイコ」について、こんな話を聞いて、わあ、私の時代とはずいぶん違うものだ、と驚きました。バブル世代の私たちは、とにかく「ガンバル」ことがよし、とされていました。自分の能力以上のことを抱えていれば、伸び代を伸ばすことができるし、まだ見ぬ世界を知れば、新しい扉が開くかもしれない。そんな自分の中に眠っている可能性に心ときめかせたものでした。遊ぶことにも貪欲だったけれど、「1か月後に休むために、今ガンバル」といった具合に、「味わい楽しむ」よりも、「獲得する喜び」を重視する世代だなあと、振り返って思います。

 

でも、時代が変わり、景気は後退し、「頑張っても」どうにも打破できない状況が目の前に広がったとき、「サイキンノワカイコ」は、未来のために「今」を犠牲にすることをやめ、「今日」「たった今」を楽しむようになったのでしょうか?

 

「今から」「ここから」という若い子たちが、何を考えているのか? それを知りたくてたまらなくなりました。新たな思考のプロセスを知ることは、50代の私たちが、当たり前だと思ってきたあれこれを、もう一度見直すきっかけになるかもしれません。

 

さらに、迷い、悩み、焦っている若者に、何かを伝えられるかもしれません。20代と50代。普段は会うこともないこの組み合わせの中で、何かしら面白い化学変化が起こればいいなと、この連載を始めてみることにしました。

↑モデルであり、ミュージシャンでもあるタカハシマイさん(左)。たくさんの人の“暮らし”を取材してきた一田さん(右)の目に、マイさんの暮らし、そして生き方はどう映るのでしょう?

 

第2回は、バンド「Czecho No Republic(チェコノーリパブリック)」のシンセサイザー&ボーカル担当で、モデルとしても活躍するタカハシマイさんです。今回のインタビューの前に、私はまずYouTubeで「チェコノーリパブリック」の動画を見ることから始めました。「Forever Summer」「Baby Baby Baby Baby」「Hi Ho」。気づくと、見終わってからも、そのメロディを口ずさんでいました。なんて心地いい音楽なんだろう。今まで聞いたことのない調べなのにす〜っと体に入ってくる。そんな感じでした。

 

さらにボーカルとして歌うマイさんの愛らしいこと! 眉毛の上でパッツンと切った前髪。くるくる巻いた長いヘアは妖精のよう。どのシーンの洋服も素敵で、音、ファッション、映像、すべてがひとつになって、物語を紡いでいるようでした。でも……。画面から伝わってくるのは、そこに「意志をもって立っている」というマイさんの強さだった気がします。この人、いったいどういう人? 興味津々で取材の日を迎えたのでした。

↑「チェコノーリパブリック」では、シンセサイザーとボーカルを担当。4人のメンバーと共に独自の世界観で活動を続けている

 

「小さな頃から歌が好きだったんですか?」とまずは聞いてみました。「そうですね。もともとは幼稚園ぐらいのときに、SPEEDを好きになって、いつも歌って踊っていました。思春期になっても、音楽をやりたいっていう気持ちはずっと変わらずにありました。洋服も好きだったので服飾の世界もいいな、という思いもありましたけど、『歌手になりたい』っていうのが、小さな頃からの夢でしたね」と教えてくれました。

 

洋服への興味はどこから生まれたのでしょう?

 

「5歳年上のいとこのお姉ちゃんがいるのですが、その影響ですね。私が中学生の頃、お姉ちゃんはロングヘアを赤茶色に染めて、ブワ〜ッと広がるパーマをかけてきたんです。そのヘアスタイルに古着を着ていて、それを見た時に『めちゃくちゃかわいい!』って思ったんです。ほかにはいないような珍しいスタイルで、なんて個性的なんだろうって。その個性的な感じが、私にはツボだったんですよね」。

 

つまり、「人と違う」ということに強烈に惹かれたということ。ここが、私の若い頃とは大きな違いでした。まだ自分が何者でもなく、どう生きればいいかもわからない時代。優等生だった私は、「みんなに認められるいい子」になろうとしていました。つまり、「王道」の真ん中を歩くことを目指し、「レールから外れないように」と生きていたってこと。マイさんと真逆です。

 

人と違う自分でいる、というには強さが必要です。「私はこれでいい」と自分で自分を信じられなくてはいけませんから……。マイさんは、そんな強さをどうやって手に入れたのでしょうか?

 

「うちは父子家庭で、父方の実家で兄と、おじいちゃん、おばあちゃんと5人暮らしでした。小さな頃から父に対しての不満があって……。すごく厳しくて、みんなより門限が早いとか、お泊まりがダメとか。そういうものに対する反抗心が、『人と同じはいや』という方向へいったのかもしれません。今は父へのいろんな感情は一周まわってわかるようになりましたけど」

 

今回お話を聞いて、この「誰かとかぶりたくない」という気持ちが、マイさんの中で、扉を開く“鍵”となっていることを知りました。まずは、あのお姉さんの個性に憧れて、古着に目覚めたマイさん。中学生の頃から1人で電車に乗って、埼玉から原宿へ、古着を探しに通うようになります。「そこで、ヴィンテージという世界があることを知って、本屋さんで毎月雑誌『Zipper』を買うようになりました」。

 

1993年に創刊された『Zipper』は、“みんなと同じスタイルは『NO』!”がそのコンセプトでした。まさにマイさんの当時の心とぴったりと重なったというわけです。

 

「街の素敵な女の子」が主役のウェブマガジン「mer」にも、たびたび私服コーデで登場。古着と新しいものをミックスさせるのがいつものスタイル

 

ちょうどその頃から、ロックバンドに目覚めたそう。「それまでは、普通に『モーニング娘。』とかが好きだったし、いわゆるテレビで活躍しているアーティストを聞いていたんですが、中学生頃からバンドミュージックを聴くようになりました。友人のお姉ちゃんが軽音部だったので、いろいろ教えてもらって……。その頃出会って衝撃を受けたの『銀杏BOYZ』でしたね」

 

本格的に音楽をやりたいと、高校は軽音楽部があるところを選び、バンド活動を始めました。高校卒業後も、「音楽をやる」と決め、あえて就職しなかったと言いますから、その思いの強さに驚きです。そして、ひとりで上京。
その頃から、プロになるつもりだったの? と聞いてみました。

 

「なるだろうな、なれるはず! と思っていて、軽い気持ちで出てきちゃったかな」と、明るく笑います。

 

就職しない、ということはミュージシャンとして食べていくということ。もし、なれなかったら……。もし食べていけなかったら……。根がネガティブ思考の私は、心配や不安の方が先に立って、きっと自分の夢は後回しにしてしまったはず。

 

「どうやってでも生きていけるだろう、っていう気持ちでした」と語るマイさん。
ネガティブ思考はあんまりない人なの?と聞くと……。

 

「まったく。1ミリもなかったですね」と大笑い。

そのポジティブさは、どこからくるのでしょう?
「どうしてだろう〜? 昔からよくも悪くも楽天的すぎて(笑)あんまり落ち込んだりもしないし、どうにもでもなるさっていう気持ちが大きいです。おじいちゃんとおばあちゃんが『好きなことをやりなさい』って育ててくれたからかな」

 

 

こうして、厳しかったお父様には内緒で家を出て、当時つきあっていた彼の家へ。ある意味、後先考えずに走り出すことで、マイさんは運命の扉を開けたよう。あの古着を見に行っていた原宿で、当時たびたび雑誌のスナップ写真を撮られ、憧れの雑誌だった『Zipper』に掲載されるようになっていました。プロフィールに「音楽をやっています」と書いたところ、なんと、それを見た大手音楽事務所から連絡があったと言いますから、その強運っぷりには驚かされます。「『歌を聴いてみたいです』って言ってくださって。それで、次の日に会社に行って歌ったら、養成所に入ることになりました」

 

ところが……。デビューの入り口が見えかけたところでマイさんは踵を返してしまいます。「私の才能が追いついていないこともあって、なかなか思うようにいかなくて……。求められることと、やりたいことに誤差が生まれて、もう無理……とやめることにしたんです」。
そのまま所属していれば、プロになる道がより近くなったはず。なのに「何かが違う」という自分の違和感を優先したなんて! 迷いはなかったんですか?と聞いてみました。

 

「かなりありましたね。何よりも大手音楽事務所に所属したことを家族がすごく喜んでくれていましたから……。でも、友人たちは『それって、本当に好きなことなの?』『自分が好きなことをやった方がいい』って言ってくれました。私、これは好き、これは嫌いというのが、昔からはっきりしていたんだと思います」。

 

 

ちょうど養成所に通い始めた頃、マイさんにはもうひとつの出会いがありました。それが現在所属しているバンド「チェコノーリパブリック」。

 

「友達と同じバイト先に、ボーカルの武井優心さんがいたんです。武井さんが、女性のコーラスを探していて、友達が紹介してくれました」。すでにあるグループに、あとから一人入る、ということは、なかなかハードルが高いもの。

 

当時、モデルの仕事も始め、少しずつ雑誌での露出も増えていたマイさん。「最初の頃は、バンドのイメージ的に『モデルがメンバーに入った』ということが、なんだか軽いイメージがして、バンドにとってマイナスになるかもって思ったんです。でも、メンバーがモデルとして私を知ってくれている人が、チェコを聴き始めてくれるかもしれないし、そうしたら新規のお客さんが増えるかもしれないって、言ってくれて。最初はライブに出ても、あんまり目立たないようにしていたこともあったんですが、「私が入ったことで、少しでもよくなった、ってみんなに思ってもらわなくちゃ!」って燃えました(笑)。徐々に私が歌う曲が増えていって、時が立つにつれて、メンバーとしてちゃんと認識してもらえるようになったかな」

 

大手音楽事務所を辞めて、バンドに入って、そこでも自分の出し方を試行錯誤して……。この経験を経て、マイさんの中で大きな変化がありました。「私が! 私が! っていうのがなくなりました。バンドとしてよくなっていけたらいい。それを第一に考えられるようになったんです。たぶん、あの挫折がなかったら、今も『私が!!』って生きていたと思います(笑)。時間はかかったけれど、今が一番自分を取り戻している気がします」

 

有名になることと、いい音楽を作ることは違います。でも、この区別をきちんとすることが難しいもの。ともすれば、「こんな音楽を演れば、有名になれるかも」と考えてしまいがちだから。人生の節目で、マイさんはちゃんと「自分が本当にしたいこと」の声を聞き分けられる人でした。そこがすごいなあと思うのです。

 

私は、フリーライターとして駆け出しの頃、食べて行くために、好きじゃない仕事もずいぶんやったなあと思い出します。インテリアや暮らしが好きだったのに、その路線一本では食べていけなくて、「東京のラーメン屋さん特集」だったり、「〇〇県遊び場ガイドブック」的な仕事もたくさんやりました。やっと自分の好きな路線だけで書いていけるようになったのは、40歳をすぎてからだった気がします。

 

「やりたいこと」を手にするためには「下積み時代」があって当たり前。そう考えるのは、もはや古い思考回路なのかもしれないなあと思いました。がまんして、やりたくないことをやって自分を消耗しないように……。人は、「やりたいこと」だけに向き合っていたら、自分のエネルギーを不完全燃焼させることなく、本当の自分のために効率よく燃やすことができるのかも。

 

「今、自然体でありのままの気持ちで音楽ができているなって感じるんです」とマイさん。

 

 

実は今年、マイさんは自身のブランド「ELLA CANTARIA(エヤ カンタリア)」を立ち上げました。ディレクターとして、作りたい服を作った経験はそれは楽しかったそう。「エヤ カンタリア」とは、スペイン語で「彼女は歌うだろう」という意味。まとうだけで清々しい気持ちになり、思わず歌い出したくなる……。そんなスタイルを提案しています。

 

さらに、たくさんのプライベート写真とともに、自分で文章も綴ったZINE第二弾「what’sタカハシマイ」も発表。次々に自分発信の場を広げています。

 

「正直なところ、今はモデルというよりも作り手でありたい、という気持ちが大きいんです。例えばライブ中に着る服など、身に纏うものにすごくこだわりが強い。私は自分を表現することが好きなんだなあって思いますね」。

 

↑等身大のマイさんの魅力がぎゅっと詰まったZINE。写真のセレクトから文章まですべてを自分で手掛けた

 

↑しなやかでいて、凛とした強さも秘めている。そんな心豊かな女性像をコンセプトにマイさんが立ち上げたブランド「ELLA CANTARIA」
  1. 1
  2. 2
全文表示