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2022/1/19 18:45

密教奥義を知る男が説く、仏教に学ぶ「コロナ社会」での不安・怒りを乗り越える方法

いまだ先行きが見通せないコロナ禍にある社会。誰もが漠然とした不安を抱えながら、日々を送ることを余儀なくされています。そんな不安定な社会のなかで、負のスパイラルに陥ることなく心を平穏に「整える」ためにはどうすればよいのか。そのヒントが、仏教の膨大な智慧のなかにこそあるのではないか———。そこで、ネパールに留学して10年近くチベット仏教(チベット密教)の修行を続けた牧野宗永さんにお話を伺ってみました。

 

牧野さんは、密教奥義の伝授を受けて帰国してからは、チベット仏教の叡智を美術や教育、観光を通して伝える「仏教文化コミュニケーター」として活動しています。チベットにかぎらず仏教全般に造詣の深い牧野さんに、仏教的な観点にもとづく「コロナ社会での心の整え方」について教えていただくとともに、誰でもどこでも気軽に取り組める、基本的な瞑想法もレクチャーしていただきます。

 

チベット仏教:仏教のなかで、呪術的な祈禱を積極的に取り入れた流れを密教という。インドからチベットへ伝わった仏教は密教を主流としつつ、土着の信仰とも習合したため、独自の密教が生じた。そのため、チベット仏教はチベット密教とも呼ばれる。

 

牧野宗永(まきの・そうえい):仏教文化コミュニケーター。1975年愛知県生まれ。佛教大学で中観思想を学び、卒業後ネパールに留学。ケツン・サンポ・リンポチェに師事して、約8年間チベット仏教の修行にはげみ、ニンマ派の伝える密教の奥義であるゾクチェンの伝授を受ける。日本への帰国後、チベット仏教の叡智を美術や教育を通して伝える「仏教文化コミュニケーター」として活動。著書に『働く人のためのマインドフルネス』(菱田哲也氏との共著、PHPビジネス新書)、『なぜ人を殺してはいけないか』(きずな出版)がある。セミナーも多数。直近では三田弘法寺で「牧野宗永さんに学ぶゼミ」(2022年2月10日)を開催予定

 

中学生で出家を決意! 仏教哲学を学びチベット仏教の修行にネパールへ

———牧野さんは小さいころから仏教に興味を持っていたそうですが、ご実家がお寺というわけではないんですよね?

 

牧野 名前の「宗永(そうえい)」というのは本名で、お坊さんのような名前なので、よく「ご実家はお寺さん関係ですか?」と聞かれるのですが、実は全く関係ありません(笑)。祖母がたいへん信心深い方で、その関係でご縁のあるお寺さんから名前をいただいたのです。

愛知県豊橋市で生まれ育ったのですが、その祖母がよくお寺巡りに連れて行ってくれました。それで小さいころからお寺が好きになり、小学生にしてマイ御朱印帳をもっていたほどです(笑)。

中学を卒業したら出家をすることも真剣に考えていたのですが、親のアドバイスもあって高校に進み、その後、仏教を学問として学ぶのも面白いなと思って京都の佛教大学に入学しました。大学では、「空(くう)」をめぐるインドの仏教思想、専門的には中観(ちゅうがん)思想というのですが、これを中心に勉強しました。

 

———大学卒業後は、チベット仏教の修行をするためにネパールに渡ったそうですが、なぜチベット仏教を選んだのでしょうか?

 

牧野 大学に入る前ぐらいから、チベット仏教がいちばん実践的な仏教で、そこに自分にとっては理想的な仏教修行があるのでは、と考えていたのです。それに、私が大学で学んだ後期大乗仏教がそのまま残っているのが、チベット仏教でしたので。

修行先は現地へ行って自分で探しました。そしてネパール・カトマンズの郊外にあるチベット仏教ニンマ派の僧院に入り、ケツン・サンポ・リンポチェを師として密教修行に取り組みました。在家の密教行者というかたちでしたが、師僧のもとで約8年間、瞑想行を中心に密教を深く学ぶことができました。

その後は何年かネパールと日本を行ったり来たりしていたのですが、師僧が亡くなったことを機に日本に軸足を移し、「仏教文化コミュニケーター」としての活動をスタートさせました。ただし、まだまだ修行中の身で、瞑想は一生続けていくものだと自分では思っています。

 

自分の心を変えて問題を解決する

———それでは、今回の本題に進みましょう。新型コロナウイルスによるパンデミックに世界中が見舞われてからすでに2年が経ちますが、収束の見込みはいまだ不透明です。そんなコロナ下の社会では多くの人が不安やストレスを抱えて生きていますが、仏教的な観点からすれば、どう対処すればよいのでしょうか?

 

牧野 新型コロナウイルスの出現によって、みんなが何をもっとも怖がっているのかというと、それは簡単に言えば「死」ですよね。現代社会は死や病気といったものを隠す方向に進み、死というものを遠ざけてきました。そして私たちは、自分の生活がこれまでと変わらずにすむように、ウイルスを撲滅してコロナに罹らなくなるようにしたいと考えて、状況をコントロールしようとするわけですよね。

ところが、仏教の姿勢はこれとは反対で、お釈迦様は、「肉体を含めてすべてものは刻一刻と変化していずれは死に向かっていく。すべての存在は儚いものである」と説いていますこれを「無常」と言いますそして、状況をコントロールしようとするのは結局は無理な話で、現在の状況をそのまま受け入れなさいと教えます。これが仏教の基本的な姿勢なのです。

 

———でも、コロナ禍の状況をそのまま受け入れても、それだけで不安を取り除くことはできないのではないでしょうか?

 

牧野 すべては無常であるということを受け入れたうえで、「自分の周りにある不安の要素をなくすのでなく、その不安な心そのものに向き合いなさい」と仏教は説くのです。

自分の外側にあるものをコントロールしようとするのではなく、不安や怒り、恐れといった感情に取り込まれないような心の持ち方をつくらないと根本的な解決はできない。周りを変えるのではなく、自分の心を変えて問題を解決していく。それが一番早いし、実はいちばん根本的な解決策なのです。

自分の中に日々湧いてくる、恐怖や不安といったものをうまくマネージメントできれば、それに取り込まれずにすむ、ということなのです。

 

———具体的には、どうやって心をマネージメントするのでしょうか?

 

牧野 いろいろな情報に踊らされずに、今の状況を受け入れるということが基本です。

チベットの慣用句に、「心配することはない」というものがあります。どういうことかというと、「心配しても解決できないような心配事だったら、心配しても解決できないのだから、心配しなくてもいい。心配して解決できるようなことだったら、結局は解決できるのだから、心配しなくてもいい」ということなのです。

結局、心配というのは私たちの心が作り出している妄想であり、心は日々それに捕らわれ、引きずり回されています。心に浮かんでくる恐怖や不安といった感情のことを、仏教では「クレイジーモンキー」などと呼びますが、私たちはそのクレイジーモンキーに鼻面を引き回されて、疲弊して生きている。でも、その動き回っている猿をただ眺めているだけにすれば、疲れないし、それに取り込まれないですむ。

その態度を身につけるための手段が瞑想となるわけですが、これについては後ほど詳しく解説します。

 

自分がそれまで大切だと思っていたものを手放してみる

———コロナ下では、ソーシャル・ディスタンス、在宅ワーク、オンライン会議が推奨され、人とのリアルなつながりが疎まれる傾向が生じ、そのために孤独感や寂しさを抱えて、メンタル面での不調を訴える人も目立ちました。そうした人たちに対しては、どんなアドバイスを送りますか?

 

牧野 チベット仏教は「人間の心は粘土のようものだ」と説いています。粘土は形があるようでないし、自分の意思次第でいかようにも形を変えることができる。心も、粘土と同じように、美しく作ることもできれば、醜く作ることもできる、良く作ることもできれば、悪く作ることもできる。

リモート化やオンライン化が進んで、戸惑いを覚えるのは当然のことだと思います。でも、もう元には戻れないかぎりは、その状況を受け入れて、自分の中で少しずつ慣れていくしかないのではないでしょうか。

私たちの心はどんなことにも順応できる素質をもっています。チベット仏教の修行では最終的には1日12時間も瞑想するのですが、もちろん、最初からそんな長時間の瞑想を指導者がさせることはありません。はじめは1分2分からはじめ、時間を少しずつ延ばしていく。それと同じように、私たちの心も少しずつ状況に慣らしていく。

ただし、あまり前向きになってその状況に取り込まれてはいけません。恐怖や寂しさに取り込まれず、また目を背けるのでもなく、距離をとって俯瞰するような態度を身に着けることが重要だと思います。

 

———コロナの影響で仕事を失ったり、売上が激減したりして、経済的な苦境に立たされた人も多くいます。そうした人たちは、「自分は悪くないのに、なんでこんな目に遭うのか」という行き場のない悲嘆に陥りがちですが、そんなときはどう捉えればよいでしょうか?

 

牧野 そういった悩みを抱く人に、ぜひ聞いてほしい話が仏典の中にあります。それはこんな話です。

インドのある村にキサーゴータミーという若い母親がいて、男の子を生みました。ところがこの子は可愛い盛りに病気で亡くなってしまいました。キサーゴータミーは息子の死を受け入れることができず、死者を生き返らせる薬を求めて家々を訪ね歩き、最後はお釈迦様のもとにたどりつます。薬を懇願されたお釈迦様はこう答えました。

「一握りの白カラシの種をもらってくればその薬をつくってあげよう。ただし一つ条件がある。その白カラシの種は、ひとりも死者を出したことのない家から手に入れたものでないといけないよ」

キサーゴータミーは白カラシの種を求めて家々をまわります。ところが、種はどの家にもありましたが、死者を出したことがない家など一軒もない。どの家も「ウチはこないだおばあさんが亡くなって」「ウチは主人が……」「ウチは娘が……」という具合だったのです。そこでキサーゴータミーはハッと気づきます。

「生きている人より死んだ人の方がはるかに多い。自分の子どもだけが死んだと思っていたけど、それは思い違いだった!」

さらにお釈迦様に「死は生けるものの定めです」と説かれたキサーゴータミーは、息子の遺体を森に葬ってから仏弟子になり、最後は悟りに至りました。

この説話は「死」が主題となっていますが、コロナ禍にあてはめることもできます。コロナ禍においては、大変なのは自分だけではない。起こったことはどうしようもなく、もう取り返しのつかないことであるなら、それを受け入れて、そのうえで自分は何ができるのかということを考えてみる。そういう姿勢がとても重要ではないでしょうか

「自分だけがひどい目にあった」「自分だけが損をした」というふうに、負の感情に取り込まれれば取り込まれるほど、辛くなります。そうではなく、状況を受け入れて、自分がそれまで大切だと思っていたものを手放してみる。そうすると、本当に自由な道や建設的な考え方があらわれて、次のステップに進めるようになるのではないでしょうか。

 

———これからのウィズ・コロナ、あるいはコロナ後の世界に向けて整えておくべき心のあり方とは、どのようなものでしょうか?

 

牧野 私たちは、自分の中に現れてくる思考や感情を現実化することが正しいし、それができなかったら人生に失敗したことになると思い込みがちですよね。でも、お釈迦様は「そうじゃないんだ、そんなことを言っているからあなた方は幸せになれないんだ」と言っています。

頭の中のことはしょせん現実に投影できない。いちいち頭の中の猿の言うことにしたがわずに、そこから距離をとって、巻き込まれないようにして見ていく。そうすると楽になれる。私たちは隙間を見つけるとそれを何かで埋めようとしますが、その隙間にたゆたうことができたら、そこは豊かで優しくて穏やかな、リラックスした心になれる場所になる。そこを目指してもいいのでは、ということをお釈迦様は提案しているのです。

自分たちの外側をどうにかするのではなく、不安や恐怖が生じる大本である自分の心に向かう。コロナや死に対して浮かんでくる一つひとつの思考や感情に飲み込まれずに、距離を置いていく。そういう練習を重ねていくことで、心は穏やかになり、いろいろなものがはっきりと見えるようになると思います。

コロナ社会の先行きを見通すことは困難ですが、ただひとつ言えるのは、「どんな状況になっても、それに対処する心を私たちは整えることができる」ということです。何が起きても状況を受け入れて、穏やかで冷静な態度で対処する。そしてその心を自身で育てることはできるのです。

 

心を育てる瞑想法ガイド

瞑想は心の中の不安や怒りを客観視して心を育てることができる、シンプルかつ確実な方法です。誰もが自宅や職場で気軽にできる仏教の基本的な瞑想法を牧野さんに指南していただきました。

瞑想の実践では、必ずしもポーズは重要ではありません。足を組まずに、椅子に座ったままでもかまわないのです。今回は比較的やりやすい、椅子に座って「呼吸を見つめる」瞑想法を紹介しましょう。

 

1.椅子に座り、背骨を自然にSの字を描くようにして、リラックスする。

2.肩は右に寄らず左に寄らず、ちょうど水平になるようにし、少し後ろに引く。

3.目は鼻の先を見る(半眼)。こうするとどこにも視点があわず、意識を集中しやすくなる。

4.舌を上の前歯の裏側の、歯と歯茎の間ぐらいにつける(軽く添える感じ)。

5.左手の上に右手を重ね、親指同士を軽くつけ、自然な感じで太ももの上に置き、リラックスする。

6.腹式呼吸をしながら、ゆったりと口から息を吐き出し、吐き切ったところで、鼻から息をゆったりと吸い込む。このとき、呼吸に意識を向ける。

7.ゆったり吸ったり吐いたりする呼吸を繰り返しながら、その呼吸に意識を向け続ける。

 

↑背もたれにはよりかからず、背骨を自然にSの字を描くようにして、リラックスする

 

↑目は鼻の先を見る(半眼)。こうするとどこにも視点があわず、意識を集中しやすくなる

 

↑左手の上に右手を重ね、親指同士を軽くつけ、自然な感じで太ももの上に置く

 

仏教の瞑想、たとえば座禅というと、ガチガチに緊張するイメージもあるかもしれませんが、瞑想は究極のリラックスだと考えてください。

 

何のために呼吸を見つめるのか。頭の中には数珠つなぎのように思考や感情が浮かんできますが、それに巻き込まれたり引っ張られたりせずに、その流れを断ち切るために、意識を呼吸に集中させるのです。これを繰り返していけば、行く行くは、自分の思考や感情を俯瞰できるような状態になります。これが瞑想の訓練であり、状態であり、そしてまた目的でもあるのです。

 

そして、ふだんでも思考や感情が湧き起こってきたときに、それに気づいて取り込まれず、それが現れては消え、現れては消えるという日常の状況を観察する。ふだんの行動をしながらも、心を冷静に保つ。これが今を生きる、マインドフルネスということなのです。

 

取材・構成/古川順弘 撮影/我妻慶一