第24回 フラッシュを焚かなかった写真
三十年ほど前、友人がアトランタへ留学していて、遊びに行かせてもらったことがある。友人が車を借りて、アトランタからフロリダまで、モーテルに泊まりながら旅をした。
まだインターネットはなく、地図を買って、自分たちで行きたいところにマーカーで線を引いたり、丸をつけたりして、プランを練った。途中、観光客など誰もいないショッピングセンターで、Tシャツを選んだり、ホットドッグを買って食べたり、行き当たりばったりの旅。
カーステレオで、知らないラジオ局の知らないロックバンドの曲を大音量でかけながら、ハイウェイをかっ飛ばす。我ながら青春が過ぎる旅だった。
フロリダまであとちょっとというところで、腹が減ったから食事ができるところを探そうという話になる。地図を見ると、近くに良さそうなレストランがあると記されていた。そのレストランはすぐに見つかる。
レストランの看板は古くて味があり、映画のセットのようだった。店の造りも八十年代のアメリカ映画に出てきそうな佇まい。忙しそうにホールを行ったり来たりしている店員は、淡いブルーのワンピースのような制服を着ていて、テーブルは木製で、テーブルクロスはギンガムチェック。どこに行ってもハンバーガーとオニオンリング、ポテトというメニューばかりでさすがに飽き気味だったが、その店にはミートソーススパゲティがメニューの中にあった。
僕たちは迷うことなくそれを注文し、飲み物はコーラを頼む。すぐに出てきたミートソーススパゲティは、湯切りが甘くて、お湯でソースが薄まっていた。
食事を終えて、レストランを出て、車に戻ろうとしたとき、「あっ、ごめん。トイレ寄ってくわ」と僕はもう一度、店内に戻った。トイレを借りたあと、改めて店内を眺めてみた。近くに住んでいるであろう老人がひとり、大きなハンバーガーを頬張っていた。淡いブルーのワンピースがよく似合う店員のブロンドの髪が、バービー人形のように美しかった。ケチャップの匂い。店内には、ビートルズの『ブラックバード』が小さく流れている。窓の向こうで、中古の日本車のライトが光っている。友人がその車に寄りかかりながら、こちらに手を振っていた。
夕暮れが迫り、レストランの看板に灯りが点っている。僕は後ろポケットに突っ込んでいた『写ルンです』を取り出し、フラッシュボタンも押さずに一枚写真を撮った。この場所にはもう二度と戻ってこない気がした。
僕が写真を撮ったことに気づいた店員の女性が、冗談ぽくポーズをとった。僕は笑いながらもう一枚、彼女に向かってシャッターを切った。
フロリダに向かう車中、友人と「帰りにまたあのレストランに寄ろう」と話し合ったはずだが、結局立ち寄ることはなかった。

数年前の正月に実家に戻ったとき、あのときに撮った写真二枚を押入れの奥にあったお菓子の缶の中から発見した。缶の中には他に、短い鉛筆や使用済みの海外の切手、なにかのネジやボルト、黒ずんだ消しゴム、小さいルービックキューブなんかも一緒に入っていた。写真を見た瞬間、ほとんど思い出すこともなかったアトランタからフロリダまでの旅の一部始終が、一気に蘇ってきた。あの二枚の写真を発見しなかったら、「この場所にはもう二度と戻ってこない」と感じたことすら、僕は永遠に忘れてしまっていただろう。
断捨離は大切だが、過度な断捨離は自分たちが生きていた証まで、一緒に片付けてしまうことになる。あったこともなかったことになってしまう。
ギンガムチェックのテーブルクロス。灯りの点った年代ものの看板。中古の日本車のライト。友人がその車に寄りかかりながら、こちらに手を振る光景。どれも、もう忘れていた景色だった。

イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生