第23回 あともうちょっとだけ頑張ってみようか
今朝起きたらスマートフォンがまったく反応しなくなった。画面は真っ暗のまま、うんともすんとも言わない。充電をしてみたが反応はない。
本当に困ったとき、人は不毛な手に出る。昔のファミコンのカセットがうまく反応しなくなったときのように、「フーッ、フーッ」と充電器を差し込む部分に息を吹きかけてみた。もちろん、うんともすんともだ。
一回充電をしたまま、シャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かし、再度、スマートフォンを確認してみる。「ちょっと置いていたら、なぜか復活した」みたいなラッキーはもちろん起きていない。電話も出来ず、ネットも繋がらず、ただのかまぼこ板と化したスマートフォンを持って、近くの携帯ショップに行き、どうするべきか訊いてみると、「あー、買うしかないですねー」と淡々と冷たい回答が返ってきた。
「じゃあ、そこのください」でスルッと買うほど、いまスマートフォンの新機種は安くない。なんだかんだで十五万円前後かかってしまう。
「一度考えます」そう言って、かまぼこ板(スマートフォン)を自宅に持ち帰って、無駄にもう一度充電をしてみた。当たり前に反応はない。チッ、と思わず舌打ちが出てしまう。
この時点で、時刻は昼の十三時を少し回っていた。部屋の時計で時間を確認したとき、僕は大切なことを思い出した。「明日、昼十三時にいつもの喫茶店でよろしくお願いします!」というLINEだ。差出人は大変お世話になっている編集者。たしかに昨日、まだスマートフォンが生きているときに届いたそのLINEに、朝起きたら返信しようと思っていたことを思い出した。
ヤバッと思わず声が漏れた。そしてその辺にあった資料などを全部リュックに詰め込んで、待ち合わせまでダッシュで向かう。昭和の待ち合わせのように、これですれ違ったら、この状態では連絡の取りようがない。
ハアハアと肩で息をしながら喫茶店のドアを開けると、編集者がスマートフォンをいじりながら、二杯目のアイスコーヒーを飲み干したところだった。「ここでーす!」と、こちらに向かって陽気に手を振ってくる。
僕は遅れたことを詫び、今朝からの諸事情を説明した。「SNSのパスワードはわかりますか? それに、仕事やプライベートの連絡も来ているかもしれないし、心配じゃないですか? すぐ携帯ショップに行ってください!」と忠告された。
たしかにいま、SNSにアクセスできなくなり、LINEが全部使えなくなったら関係各位、かなり心配される、もしくは怒られそうだ。電話番号アドレス、メモ、写真などのバックアップなどもとっていなかった。多分、人によっては卒倒しそうな状況だ。ちなみに打ち合わせをしていたその編集者曰く、「写真のデータが全部消えたら、一旦気絶します」とのことだった。

打ち合わせ終わり、携帯ショップに寄ろうとしたはずが、なんとなく足が渋谷の居酒屋『山家』に向いてしまう。『山家』は1年365日、24時間営業している渋谷の居酒屋で、中途半端な時間に酎ハイなどを飲みたくなると、ふらっとひとり立ち寄ってしまう、おじさんのスターバックスだ。
せっかくスマートフォンから解放された日に、すぐにまたネットの世界と繋がるのも、逆にもったいない気がして、携帯ショップの前に『山家』を一回挟みたくなった。僕の隣の席で飲んでいたサラリーマンふたり組の片方が、「いつか長野の山奥で暮らしたい」とずっと熱く語っていた。
横からもれ伝わるその話を肴に、僕は酎ハイをチビチビと飲む。ときどき僕は、品川などで打ち合わせをしたとき、帰りにふと新幹線に乗って、熱海などに行ってしまうことがある。新宿駅だと、ロマンスカーに乗って、箱根湯本に行くこともある。その衝動はつまり「現実逃避」だが、いつか本当に全部捨てて、そちらに移ってしまう気もしている。その予行練習をずっとしている気がする。どこかで、この日常に辟易している自分がいる。「長野ねえ……、白馬あたりもいいよね。軽井沢はベタすぎますかね?」心の中でそう彼らと会話をしつつ、酎ハイを飲み干した。

結局、携帯ショップには寄らずに帰宅してしまった。もしかして急ぎの連絡が入っていたかもしれない。大切なLINEが届いていたかもしれない。でも「それは本当に急ぎで、本当に大切な連絡なのか?」と、いつか自分にそう問う日が来る気がしている。
かまぼこ板と化したスマートフォンを、ダメもとでもう一度だけ充電してみた。すると……、程なくフワッとアップルマークが画面に立ちあがった。
「ああ……」と思わず。「あともうちょっとだけ頑張ってみようか」瀕死のスマートフォンに、そう言われたような気がした。
イラスト/嘉江(X:@mugoisiuchi) デザイン/熊谷菜生