本・書籍
2022/12/22 21:30

一生懸命生きて、そして死んでいった作家・山本文緒の最後の日記『無人島のふたり』

作家の山本文緒が亡くなったと知ったとき、「うそ」と声に出して叫んでしまった。つい最近まで大活躍していて、出版されたばかりの『自転しながら公転する』を読みたいと思っていたところだった。しかし、うそではなかった。彼女は2021年10月13日に自宅で死去した。享年58歳。膵臓癌を患っていたという。

 

無人島のふたり』(新潮社・刊)は、2021年4月、診断を受けてから、亡くなる9日前までの日々を綴った日記をまとめたものだ。

 

膵臓癌、ステージ4b

膵臓癌が判明したとき、既にステージ4bだったという。部位が悪いため手術はできず、抗癌剤で進行を遅らせるしか、方途はなかった。さぞや悔しかっただろう。苦しかっただろう。まだまだこれからという時である。新作の準備も怠りなく、健康にも気を配り、人間ドックを欠かさなかった。それなのに、いきなり、余命120日と知らされたのだ。「うそ」と叫びたかったのは、彼女自身であったろう。

 

余命宣告を受けても、山本文緒の作家魂は、へこたれることはなかった。むしろ、短い余命の間にできることを選択し、仕事を続けている。まずは次の新刊『ばにらさま』の校正刷りに目を通し、出版に向けて懸命に努力している。ただし、その一方で、次に書こうとしていた連作短編集のための資料を処分している。その様子を読むと、痛々しさに涙が出る。

 

余命を宣告された時、もうこれで勉強のための読書をしないでいいのだと思ったことは事実で、実際に家にあった未読本をたくさん手放した。

次の長編で、今の日本の中にいる無国籍の女性の話を書こうと思っていたので戸籍の本をだいぶ集めた。戸籍がなくても力強くいきている人もいるし、戸籍でがんじがらめになって生きている人もいる、そういう対比や彼らの未来を書きたかった。

でももう書けないので誰か書いてくださってOKです。

(『無人島のふたり』より抜粋)

 

この文章を読みながら、私は傍らにある資料がぎっしりつまった本箱を見上げた。もし自分だったら、そんなに潔く断捨離できるだろうか。きっと私は「いや、まだ読むかもしれない。死ぬまでに少しくらいは書くかも」などと、往生際悪く思い、資料を残したまま死ぬだろう。山本文緒のように、潔く「誰か書いてくださってOKです」などと、言えるはずがない。

 

それにしても、山本文緒が書く無国籍の女性を主人公にした小説、読んでみたかったと残念でならない。いくらOKが出ても、他の人には書けない作品だったはずだ。

 

一生懸命、死んでいった山本文緒

山本文緒は骨の髄まで作家だった。余命宣告にも負けなかった。それどころか、『120日後に死ぬフミオ』って本を出したらパクリと言われるかなと、考えたりしている。余命4か月と宣告されてもなお、自分に書くことができるのは何かを模索していた。

 

痛みと吐き気と高熱に苦しみながらも日記を書き続け、『無人島のふたり』としてまとめあげた。それも思いをただぶつけるのではなく、読み物として耐えうるかを自問自答しながら書き進み、まとめている。だからこそ、『無人島のふたり』は、単なる闘病記ではなく、一生懸命、生きて、そして死んでいった作家の言葉が満ちた作品となったのだろう。

 

『無人島のふたり』の冒頭、5月25日の日記を彼女は「うまく死ねますように」という言葉で終えている。その日、彼女は、たった1度の化学療法で、ごっそり抜けた毛髪をかきむしった後、カフェに行き、壊れてしまった電子レンジを買い換え、緩和ケアのクリニックに行った。そう綴りながら、「うまく死ねますように」と願っているのだから、本を持つ手が震えてしまう。こんなに悲しい願いがあるだろうか。人は必ず死ななければならないが、その日がいつ来るかわからないからのんきな顔でいられる。そう思い知った一文だ。

 

その後、彼女は何度も書いている。5月26日の日記にも「私、うまく死ねそうです」と書き、それでいながら、6月1日には「死ぬことを忘れるほど面白い」と書く。この日、彼女は金原ひとみの『アンソーシャルディスタンス』を読んだのだ。続く、6月6日には「あー、体がだるい。これいつ治るんだろう」と、思い、「あ、そういえばもう治らないんだった。悪くなる一方で終わるんだった」と気づき、泣いている。

 

一日、一日、癌は着実に病人の体を蝕んでいき、腹水がたまるなど、末期的な症状を見せる。それでも、少し気分が良い日は、友人に会ったり、家族にお別れを言ったりと、すべきことをこなしている。何よりも、日記の原稿を活字にするため、編集者に草稿を読むよう依頼している。どんなに体調が悪くても、書かないでは生きていられなかったのだろう。

 

そして、9月27日、中締めとして「明日また書けましたら、明日」と、呟くように書いた後、何度か日記を更新したものの、10月4日の日記が最後となった。4日の日記も同じ言葉「明日また書けましたら。明日」と、結びながらも、結局、書くことができないまま10月13日に亡くなった。それでも、きっと書ける明日がくると信じていただろう。最後まで書こうとしていただろう。そう思うと、やるせない気持ちになる。

 

『無人島のふたり』は、人はいつかは必ず死んでいくことを教えてくれる作品だ。同時に、どんなに仲が良い夫婦でも、ふたり一緒に亡くなるのは難しいことも思い知る。夫に見送られて亡くなった妻・山本文緒が最後の瞬間に思ったことは何か、私などにわかるはずもないが、夫に向けてこう言いたかったのではないだろうか。
「明日、書けたらまた書くね。きっと書くね。だって書きたいから」と。

 

【書籍紹介】

無人島のふたり

ある日突然がんと診断され、夫とふたり、無人島に流されてしまったかのような日々が始まった。お別れの言葉は、言っても言っても言い足りないー。余命宣告を受け、それでも書くことを手放さなかった作家が、最期まで綴った日記。

著者:山本文緒
発行:新潮社

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